『エベレストを越えて』植村直己 

  • 『エベレストを越えて』
  • 植村直己
  • 文春文庫

 長いテント生活のなかで時間はたっぷりあるので、読むべき本をたくさんもってきた。持参した何冊もの本のなかで最初にページを開いたのが、この『エベレストを越えて』だった。
 植村直己さんの本はほとんど読んできたつもりだったが、『エベレストを越えて』だけは未読だった。というのも、植村さんは常にネパール側からエベレストに登っており、一方でぼくはかつてチベット側からエベレストに登っている。違うルートであるために、参考として読むということもなかったし、エベレストに登るまでの放浪の山旅について書かれた『青春を山に賭けて』が圧倒的に面白かったので、三度におよぶエベレスト登山のみに焦点を絞った本書を特に積極的に読もうという気にならなかった。

 今回、植村さんが登ったのと同じネパール側の南東稜からエベレストに登るにあたって、こちらに来て最初に読む本は『エベレストを越えて』にしよう、と決めていた。そして、カトマンズから旅をはじめて4200メートルのペリチェに到着した夜、ヘッドランプの明かりの下で夢中になって読み続け、本書を読了した。
 旅の最初にこの本を読むという選択は、間違っていなかった。ぼくはページをめくりながら、何度も胸が熱くなり、涙が出そうになった。まず心を揺さぶられたのは、エベレストの頂上を目指す植村さんの情熱の凄まじさである。ぼくもエベレスト登山の真っ最中にこれを書いているわけだから、もちろん頂上に立ちたいと切に願っている。しかし、そのような自分の思いをはるかに凌駕する、強い思いを彼は常に心に抱いていた。「なんとしても登りたい」「最後の頂上アタックをするメンバーにどうしても選ばれたい」そうした気持ちの強さに、ぼくは圧倒される。

 まだ二十代だった植村さんがエベレストに登るための偵察でネパール入りしたのは、1969年のことだった。その頃、登山のサポートをしてくれるシェルパたちはカトマンズでも裸足で歩き、ふんどしや短パン姿だったという。現在のシェルパたちは、少し汚れてはいるものの、機能性が高いアウトドアウェアに身を包んでおり、40年前の植村さんの描写とは隔世の感がある。
 植村さんは未踏の南壁からのエベレスト登頂を目指す日本山岳会隊の偵察部隊としてヒマラヤに入り、他のメンバーが日本に帰った後も、エベレストを遠くに見ることのできるクムジュン村に一人残って越冬をして本隊を待った。シェルパの村で彼らと一緒に暮らすことにより、登山隊の手伝いをする現地人としてのシェルパとつきあうのではなく、人と人との交わりを経て、文化にもしっかりなじんでエベレスト登山に備えたのだ。それは高所順応と同時に現地順応とでも言うべき適切な姿勢であり、そのことによって彼は他のどんな登山家よりも深くかの山に近づくことができた。

 こうした姿勢は北極圏を犬ぞりで縦断する際のエスキモーとのつきあいとも共通している。ぼくは今まで植村さんのグリーンランド横断や北極点到達や5大陸の山登りのエピソードを読み続けてきた。彼の強靱な実行力は、その並々ならぬ順応力に支えられていると思っている。現地の人々と分け隔てなくつきあい、なんでも食べる。ピラニアだろうがアザラシの生肉だろうが、出されたものは何でもおいしい表情で食べきる。完食する。それが放浪者の鉄則であると彼は言っている。
 シェルパの村に入ったときもまずは食事から変えていく。現地の人々と同じように、焦がしたとうもろこしや茹でたジャガイモを食べ、塩とバターの入ったチベタン茶を彼は飲んだ。シェルパ族に肥満体はいないという有名な話があるが、それはシェルパたちが質素だが高地に適した食事をとり続けているからである。植村さんは、持参した日本食を食べることをやめ、肉体を完全にシェルパ仕様に変えていったのだ。

 クムジュン村の北にパンボチェという村があり、ぼくはそこで植村さんと親交のあったシェルパに出会った。
 パンボチェは古いゴンパ(寺院)があることが有名だが、そのゴンパは改築中だった。そして、寺のすぐ脇に、ゴンパゲストハウスという名の宿がある。ぼくはそこでお茶を飲んだのだが、その宿こそ植村さんを知るナムハさんというシェルパが経営する宿だった。ナムハさんは、1971年に植村直己さんが参加した国際エベレスト登山隊に雇われ、エベレストに向かった経験をもっている。

 詳細は『エベレストを越えて』に書かれているが、この国際エベレスト登山隊は、各国から有名なクライマー達が参加した寄せ集めの隊だった。さまざまな問題が起こると同時に、最終的には頂にも立てず、植村さんも後味の悪い思いをしている。空中分解状態になった登山隊に雇われたシェルパ達も大変だったと思うが、ナムハさんに当時の様子を詳しく尋ねる時間はなかった。
 宿の二階にある部屋で、植村さんと一緒に写った写真などを見せてもらった。写真に写っているナムハさんも若いが、植村さんも若い。二人で囲碁をさしており、楽しそうな雰囲気である。ナムハさんは、もう70歳を超えていると思うのだが、流暢な日本語を話した。「わたしは日本に行ったとき、低山病にかかりました」と言うので、おかしかった。標高4000メートルのパンボチェで暮らすナムハさんは、観光旅行で日本を訪れた際、体調を崩したのだそうだ。そのことを、彼は“低山病”と言ったのである。

 植村さんはこのような生身のシェルパたちに触れてエベレストという山を取り巻く環境に惚れ込んでいったのだろう。日本初のエベレスト登頂を果たした後に、国際隊に参加し、さらにその10年後には冬季のエベレストに登るために自ら隊を結成して三度エベレストに向かっている。そこで植村さんは隊のメンバーを一人亡くし、登頂もかなわず、失意のうちにネパールを去った。その後、南極縦断を目指す前段階として、厳冬期のマッキンリー山に単独で向かい、消息を絶っている。エベレストを越えた先にあったのが、そのような結末だったとしたら、ぼくはあまりにも悲しい。
 植村さんが執念を燃やしたその頂きの上に、ぼくは23歳の時に立った。そのちょうど10年後の今、再びぼくはエベレストにやってきている。三度エベレストを目指さした植村さんの気持ちはよくわかっているつもりだ。エベレストだけが山ではない。しかし、エベレストだけが持つ激しい吸引力を、ぼくは知っている。

(4月15日)