現地メモ4。 

 毎朝、新聞五紙をつぶさに読み、そこから得た情報が被災地を移動する際の指針になっている。一日中移動しているために、じっくりネットに接続している時間はないし、携帯電話もうまく繋がらないため、朝の出発前、前日の情報をすべてインプットしなくてはならない。

 五紙というのは、「朝日」、「毎日」、「読売」、「デーリー東北」、そして青森にいるときは「東奥日報」、岩手にいるときは「岩手日報」のことである。この五紙を読んでいるのは、単純にこれ以外の新聞が手に入らないから。「日経」も入手可能だが、ぼくが欲しいのは被災地現地の情報であって、経済のことではないので、除外する。五紙にも経済面があり、経済に関してはそれで大方事足りる。

 東京にいても新聞は毎朝読んでいたが、これだけの種類の新聞を、漫然とではなく、情報を求めてむさぼるように読んだのは初めてだった。それでようやく、新聞紙面における編集の的確さをありがたく思うようになった。

 まず全国的なニュース(今は原発関係ばかり)である総合面があって、政治経済、特集、社会面へと続いていく。最初の総合面はNHKのテレビやラジオのニュースによって知っている情報ばかりなので、ななめ読みをする。ただし、見出しの大きさによってマスコミがどの情報を重要だと思っているかがわかるため、それだけは把握する。ぼく自身の関心事と世間の関心事のズレを、総合面を読むことによってチューニングするわけだ。

 政治経済面や国際面も、総合面と同じでななめ読み。全国紙の社説は読まない。ぼくが欲しいのは一次情報であって、誰かの主体的な意見ではないし、現地入りせず本社の机の上から被災地を俯瞰して、あーだこーだ言う文章に大きな意味を感じられないからだ。

 地方紙の特集面は、避難者の名簿や生活情報が掲載されているので、きっちり読む。避難者の名簿の横には、避難所の名前も書いてあり、その町や村のどの施設が公式避難所になっているかがわかる。また、どの道路が通行止めで、どこの小売店が開いていて、どの地域の電気が止まっており、どこの公衆電話が無料で開放されたのか、などがわかるので、重宝する。

 同じく、全国紙の地方面と、地方紙の社会面も、じっくり読む。各記者は、みな被災地をこまめに歩いており、取材の密度は高い。被災者個々人のエピソードは、無数の被災者の数だけ存在し、それをぼくのような個人が把握するのは不可能なので、五紙読めば、少なくとも5人以上の被災者の現状を知ることができる。「ただの人」の人生にこそ、状況を把握する糸口と現実の重みがあることに気づかされる。現地で泥まみれになりながら取材を続ける記者たちを、心から応援したい。

 最後の社会面には多くの写真が掲載される。写真に関しては素人である記者たちが撮ったものだから、ある場面を象徴するわかりやすいイメージが選ばれる。記事を補足する説明的でわかりやすい風景かポートレート、あるいは極めて悲惨なイメージの写真か、極めて幸せなイメージの写真が多く、意図的に撮られたものばかりである。「何気ない風景」の写真などは当然ないので、ぼくは紙面に掲載された意図的な写真を見ながら、その周囲や状況をつとめて冷静に想像し、読み取ろうと努力する。そこから得られる情報も、わりと大きい。

 そうやって、新聞を読み込んでいくと、被災地に関する生の情報を得ることができる。ネットにアクセスできない被災者の情報源は新聞である。また、ネットの情報は有象無象の中から自ら取捨選択する必要があるので、リテラシーの高い人やネットにアクセスして使いこなせる人にとっては非常に有用だが、避難所の目にとまりやすい場所に、まわし読みされて、ぼろぼろになった新聞が置かれているのを見ると、こうした緊急時にあらためて新聞紙という昔ながらの媒体が有用であることを感じる。特にお年寄りにとっては、なおさらだ。新聞に掲載された避難者のリストを、まばたきもせずに凝視する人々をぼくは何度見かけたことだろう。

 ただし、新聞をはじめ、テレビやラジオのニュースで取り上げられるのは、被害の大きかった地域ばかりで、死亡者が少ない地域や、半壊や冠水などといった地味だけれどその後の人生に支障をきたすような被害を受けた場所は、なかなか とりあげられることはない。死亡者・行方不明者数にばかり気をとられてしまうが、その背後に存在する膨大な数の避難者数が意味するのは、生きてなお苦しみを得る人の数でもある。マスコミにとりあげられることのない、無数の人の人生を、ぼくたちは表に出ている報道のその奥から読み取っていかねばらない。