かくも多様な。 

4月12日

 7時起床。お茶とおしぼり。8時に朝ご飯。朝ご飯のあと、9時頃から登山の安全を祈願する儀式プジャを行った。10年前のチベット側では、ベースキャンプの後ろにロンブク寺院という寺があったので、そこから僧侶を呼んできて儀式を執り行ってもらったが、ネパール側のベースキャンプでは、サーダー(シェルパ頭)のプルバがお経をあげることになった。
 祭壇が作られ、そのそばに祈りをこめたい道具類を置いた。登山靴やピッケルなどが建てかけられ、ぼくはノースフェイスのバックパックを置いた。ちなみに今回の遠征では、ノースフェイスが装備類のすべてをサポートしてくれている。とてもありがたい。
 プルバやロプサンや他のシェルパ達がお経を読み、ぼくたちは後ろでそれを聞いていた。お香が焚かれ、煙が舞う。途中で米粒を山盛りにしたお盆がまわってきて、お経の最中、ひとつかみの米粒を空に向かって何度か投げた。
 最後に祭壇の上に柱を立て、チベット仏教の経文が書かれたタルチョを四方に伸ばし、祭壇を完成させる。米粒がまかれた祭壇の付近に鳥が舞う。カラスだろうか。10年前も同じ風景を見た。プジャが終わりに近づくと、どこからともなく黒い鳥がやってきて空を舞ったのを覚えている。サングラスを通しても突き抜けてくる紫外線をまぶしく感じながら、ぼくは真っ青な空を見上げた。悠々と舞う鳥は、ヒマラヤの峰の彼方に消えていった。

 プジャが終わると、あの粉はツァンパだろうか、きな粉のような粉をプルバが肩につけてくれて、その後、顔にもつけてくれる。お菓子がまわってきたりして、子どもの頃の夏祭りのような気分になる。
 ウィスキーのふたにウィスキーが並々注がれてまわってきて、それを一気にあおる。高所では酔いがまわりやすい。
 プジャのあとは、記念撮影会だ。最初にクライミング・シェルパたちが集まり、次にキッチン・シェルパたちが加わり、さらにラッセルやガイドやスタッフがまじり、最後にエベレスト登山のメンバーが集合した。
 撮影が終わると、シェルパ達によるシェルパ・ダンスが披露された。昔はナムチェあたりで、お祭りの際に伝統衣装を着たシェルパ族によるダンスが見られたようだが、ぼくはそれを生で見たことがなかった。祭壇を前に、ヒマラヤを背に、シェルパたちが歌いながら踊る姿は、壮観だった。
 プジャと、プジャにまつわる行事がすべて終わると、トレッキングメンバーの三人の女性がペリチェへと帰っていった。昨日、皆からの募金を預かった日本人の女性も帰途についた。ぼくは三人を見送った。

 サーダーを務めるプルバは、実にいい男だ。ぼくと目が合うと「ナオキサーン!」と言って微笑む。ようやく記憶がよみがえってきたのだが、彼は10年前も同じだった。目が合うと「ナオキサーン」と言って、笑みを作ってくれた。信頼できる笑みである。
 プルバは、当時、すでにエベレストに7、8回登っていたはずだが、10年後に再会した今では、すでに登頂回数は17回を越えていた。頂上間近で登山者の面倒を見ながら引き返したことも多数あるので、彼の本当のエベレスト経験値は相当高い。
 他にもアマダブラムをはじめ、マナスルに2回、チョオユーに5回、シシャパンマに1回登頂している。チベット側では、エベレストに登る前に8000メートルという環境を経験するための比較的容易な山として、チョオユーやシシャパンマがあげられる。無論、それはノーマルルートでの話だが、ラッセル隊ではいきなりエベレストに登るのではなく、チョオユーなどで足慣らしをすることを今まで勧めてきた。
 しかし、近年の中国の規制によって、チベット側からの登山が不安定になった現在、もはやチョオユーでの公募隊をラッセルは取りやめた。ネパール側における、チョオユーのような8000メートル入門的な山は、マナスルになった。
 公募隊では、まずはマナスルのノーマルルートを登って、その後にエベレストに挑戦するという流れができつつある。今回のエベレスト登山メンバーのなかには去年の秋にマナスルに登頂した人が4人もいる。彼らはエベレストの前哨戦として、マナスルで8000メートルとはいかなる場所か、体験してきて今回の参加にいたるというわけだ。
 8000メートルという場所の恐ろしさは、体験した者にしかわからない。ある程度は技術でカバーできても、必ずカバーできない何かが残る。だから、ラッセルは、いきなりエベレストの公募隊に参加を希望する者がいても、断ってきた。マナスルをはじめ、ある程度の経験がなければ、隊に入れてもらえない。
 マナスルは日本隊が初登した山で、決して簡単な山ではない。が、プルバとラッセルによって、今までよりも難易度の低いノーマルルートが開拓され、しっかりしたフィックスロープが張られた。それはここ数年の話だが、新しいノーマルルートの開拓によって、そんなに技術のない登山者でもユマールを使ってマナスルに登れるようになったのだ。

 話をプルバに戻そう。プルバはクムジュン村で、タシ・フレンドシップロッジという宿屋を経営している。シーズンのほとんどをヒマラヤで過ごし、8000メートル峰ばかりでなく、アマダブラムの公募隊などでもサーダーを務めて、多くの登山者を頂きに導いてきた。
 医者が高所でプルバの血中酸素濃度(SPO2)を測ったとき、70代だったという話がある。つまり、普通の登山者とそんなに変わらない数値であるにも関わらず、高所で驚異的な働きをするわけだ。それは持って生まれた才能というほかないだろう。

 昨晩、プルバと話したとき、マルコの話になった。マルコ・シフレディはフランス人のスノーボーダーで、日本でも名前を知られている。2001年、ぼくがチベット側からエベレストに登ったとき、マルコも同じラッセル隊にいた。彼はエベレストの頂上からスノーボードで滑り降りた世界最初の人間である。しかも、フリーソロだった。
 ぼくがセカンドステップを越えてようやく8600メートルの頂上ピラミッドにとりついたとき、彼はすでに頂上に立ってスノーボードで滑り降りてくるところだった。驚異的な強さだった。彼が22歳、ぼくが23歳で、歳が近かったので、ぼくたちは一緒のテントになることが多かった。舌やへそにピアスをつけていて、高所でも外すことがなかった。ベースキャンプに着く前、チベットの村々にスケートボードを持ち込み、チベット人の群衆の視線を一手に惹きつけながら声をあげて滑りまわっていた。とにかく、友人としては、とてもいい奴だった。
 2001年の滑降を成功させた数年後、マルコはエベレストのホーンバイン・クーロワールという別のルートを、再びフリーソロで滑る計画をたてた。マルコはラッセルに頼んで、再びラッセル隊の一員としてエベレストへ向かった。ラッセルは、最初はその頼みを断った。それは危険すぎるからだ。2001年の滑降の成功も、奇跡的だった。クレバスや岩場をどうにか抜けて、6400メートルのABCまで彼はなんとか滑り降りたが、ルートなどはあってないようなもので、直感で切り抜けたに等しい。ほんのわずかでも歯車が狂えば、死んでしまう行為である。
 二度目の挑戦の末、彼は帰ってこなかった。頂上から滑りはじめ、8600メートル地点までシュプールが確認できた。それを確認したのはプルバだった。プルバもマルコと親しかった。プルバだけが最後までマルコの姿を探した。あの超高所で全力を投じて探した。でも、マルコは見つからなかった。エベレストのホーンバイン・クーロワールのどこかに、マルコは今も眠っている。
 マルコはシェルパ達に愛されていた。2001年の滑降の成功後、マルコは時の人になり、多くのメディアに取り上げられた。なかには、シェルパにスノーボードをかつがせたことを批判するメディアもあった。しかし、それは所詮、実際に行動したことがない者の戯言だろう。シェルパがスノーボードをかついであがり、マルコは滑るだけであったとしても、そばで見ていたぼくからすれば、あの滑降は奇跡としか思えなかった。
 そんなマルコのことを回想しながら、夜が更けていった。2001年は、他にもバブチリ・シェルパが36歳で命を落とした年でもある。バブチリは、エベレストに10回登頂し、無酸素で21時間頂上に滞在した経験をもつ。我慢大会のようなその奇怪な記録に大きな意味があるとは思えないが、人間の限界を拡張したという事実は残った。その彼がカメラを持って6400メートルのABCの近くにある大クレバスの写真を撮りにいき、落ちて亡くなった。経験を積んだシェルパでも、このようなミスによって、命を落とす。

 エベレストにまつわるストーリーは、かくも多様である。スノーボードで滑ってしまうマルコも、仕事場としてエベレストを選んだプルバも、21時間頂上でじっとしていたバブチリも、長年にわたって公募隊を催行してきたラッセルも、ある意味で狂人であるとぼくは思う。新しい世界を切り開く素晴らしき狂人に出会える場所というのは、エベレストの他にはなかなか見つからない。
 エベレストという山は、たまたま世界で一番高い山であるがゆえに、他の山よりもはるかに現実離れした多くの物語を有する。山の素人もやってくる。プロのクライマーもやってくる。シェルパ達にとっては、生計をたてるために必要な山でもある。わかりやすいというだけで、テレビなどのメディアが注目する。
 エベレストのようにすでに登り尽くされた山には登る気がしないという先鋭的なクライマーの気持ちはよくわかる。しかし、ぼくはこの極地の生臭い現実にたまらなく惹かれるのだ。エベレストに登ることは、もはや冒険物語としては成立しえない。それだけははっきりしている。

 エベレストに関わるあらゆる事象を、熟練した登山家やシェルパたちからつぶさに聞き、自分の目で現在のエベレストをきっちりと記録すること。フィルムに刻みつけること。それが、ぼくがここにきた目的である。