登頂の詳細。 

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5月25日

 カトマンズまで戻ってきた。

 5月20日早朝にエベレストに登頂して、その日のうちに一気に6400メートルのC2まで下り、次の日(21日)にC2からBCに戻った。夜は、ホワイトポッドでパーティーをした。

 息つく暇もなく、翌22日昼にはBCを撤収し、ぼくたちはペリチェまで下った。翌23日はペリチェからナムチェバザールへ下り、翌24日はナムチェからルクラまで帰ってきた。そして今日、ルクラからカトマンズへ飛び、今はカトマンズ市内のホテルの部屋にいる。

 つまり、登頂してから一日も休むことなくひたすら歩き続けてルクラまできて、今日ようやくカトマンズに到着して一休みしたことになる。足が棒、とはまさに今の自分のことである。

 メンバーのうち、デイビッドとアダムは、BCからヘリでカトマンズへ帰っていった。BCからカトマンズまでのヘリチャーターの代金は10000ドル、およそ100万円弱である。二人で割っても一人50万円。とてもじゃないが、ぼくが支払える額じゃない。登頂直後で、もちろん疲れてはいたが、雪のない山道は歩きやすかった。とにかくルクラまで、エベレスト街道を休みなく歩きに歩いて今にいたる。


 アタックから登頂までのことを書こう。

 5月16日深夜2時にBCを出発し、C2に入った。17日は丸一日C2で何もせずに体を休め、18日にC2から7200メートルのC3へ向かった。

 頂上アタック出発直前にNHK隊のベースキャンプを訪ねて、「いよいよ行ってきます」と挨拶をしたとき、ディレクターの廣瀬さんから「さんまの蒲焼き」の缶詰をもらった。すぐに食べてしまいたいのをグッとこらえて、ぼくはこの缶詰を大切にザックにしまいこみ、C3まで運んできた。
 C3に着いてから湯を沸かしてアルファ米からほかほかのご飯を作った。そして、大切にとっておいた「さんまの蒲焼き」を開封し、ご飯と一緒に食べた。これが最高に美味しかった。汁まで飲み干した。同じテント内にオランダのレネがいたのだが、彼に少しもあげなかった。このときのぼくは贈与の精神にまったく欠けていた。それほど「さんまの蒲焼き」は美味しかった。登頂できたのはこの「さんまの蒲焼き」のおかげとまでは言わないが、成功した理由の一つであるといってもいい。NHK隊の皆さん、ありがとうございました。とにかく、ご飯とさんまの蒲焼きが18日のC3での昼食兼夕食となった。

 19日の朝にC3から最終キャンプとなるC4(サウスコル)へ向かった。ローツェフェースの斜面を登り切ると、左へトラバースがはじまり、イエローバンドをよじのぼって、さらに左の方へトラバースを続けていく。そうやって回り込んだ先に、C4がある。

 C4、すなわちサウスコルは醜い場所だ。ゴミと人糞にまみれた死臭のする岩場。標高は7900メートル強、ほぼ8000メートルにある最後の平地。
 ここでぼくらは半日を過ごし、深夜0時過ぎにアタックを開始した。その後の時間の経過は、無線で確認をとっていた隊長のラッセル・ブライスが、以下のように克明に書き留めてくれている。

サウスコル出発 深夜0時25分
バルコニー到着 午前3時
バルコニー出発 午前3時8分
南峰(サウスサミット)到着 午前5時15分
南峰(サウスサミット)出発 午前5時24分
登頂 午前6時12分

頂上から下山開始 午前6時37分
南峰(サウスサミット)到着 午前7時10分
南峰(サウスサミット)出発 午前7時16分
バルコニー到着 午前7時57分
バルコニー出発 午前8時14分
サウスコル到着 午前8時53分

 これは石川個人のタイムであって、当然ながらメンバー全員が一緒の時間というわけではない。

 上記の「バルコニー」というのは、サウスコルから続く斜面を登り切ったところにある小さな空間のことを指し、「南峰」というのは、頂上の手前にある偽頂上みたいな場所のことを指す。

 上のタイムはかなり早い。というのも、20日は100人近い人が頂上アタックをかけ、バルコニーへ向かう斜面は行列していた。なかには午後7時とか8時に出発して、とろとろ登っている隊もいた。HIMEX隊はその行列に加わらず、一本しかないフィックスロープからあえて離れて、登山者を一気に追い抜く作戦をとった。冗談ではなく、本当に40人〜50人くらいの登山者を一気に抜き去った。

 バルコニーを抜けて南峰へ向かうときには、後ろの人々をはるかに引き離し、前後に他の登山者が誰一人いない状態になっていた。そこを悠々と登っていった。天気は快晴で、風も弱かった。積雪が1メートルあると予想した天気予報もあったために、NHK隊などはこの日のアタックをやめてしまったが、雪は夜間にちょろっと降っただけで、夜明け以降は最高の天気のなかで頂上を目指すことができた。

 最後の難関と言われる有名なヒラリーステップは、どこがヒラリーステップだったか今もわからないほどに、単なる岩でしかなかった。ローツェフェースやその上のイエローバンドを超えるときのほうがよっぽどいやらしい箇所があったように記憶している。

 頂上は雪庇のようになっている雪の上にあった。タルチョが地面に散乱していたので、アイゼンに引っかけて転ばないように気をつけた。チベット側からも登ってきている登山者が数人いた。10年前と同じ場所に立っているはずなのに、なにか感覚が違う。地形が少し変わっているようにも感じたし、今回のほうが気持ちの部分でも余裕があって「長かった」とか「ようやく着いた」という感覚が薄かった気もする。落ち着いて写真を撮り、ブローニーのフィルム交換にも成功した。

 頂上から戻る際、尾崎さんの遺体をソリで降ろしているシェルパたちと一緒になった。ぼくが登ったときは好天だからよかったが、K2よりも高い標高の南峰あたりで天気が悪かったとしたら相当やばいだろうな、と想像した。

 サウスコルへ戻ってきたとき、ぼくは1分でも早く降りたいと思った。遅れていた仲間が降りてくるのを待って、全員でC2へ下ることになった。結局、最終キャンプまで上がった8人全員が登頂に成功し、8人全員がサウスコルまでではなくC2まで無事に降りることができた。ノルウェーのトーマスのみ、BCからC2へ上がる際、アイスフォールの途中から引き返し、サウスコルにたどり着くことなく帰国の途についている。トーマス本人は嘔吐と下痢のためと言っていたが、精神的な弱さは否定できない。

 このようなバックアップ態勢の整ったご時世、メンバーの一人でも凍傷で指を失ったとしたら、その遠征は失敗である。凍傷にかかったけど登頂できたから大成功、なんていう意識は捨てなくてはいけない。そういう意味でも、今回のHIMEX隊の頂上アタックは、最高の結果をもたらしたといえる。

 ぼくらがBCに戻ったのと入れ違いで、スペイン隊がローツェで遭難した。その行く末の詳細は、よくわからない。ただ、単なる遭難以上に深刻なことになっているらしいというのは、ラッセルやモニカの態度でわかった。

 5月末でエベレストの登山シーズンも終わる。アイスフォールにかけられたハシゴも外されてしまうだろう。26日前後に登頂日を定めている隊も多いと聞く。多くの隊が無事に登山を終えられるよう、願うばかりである。

*写真は、先日の登頂写真を撮っていた際に、偶然、真横から撮影されたもの。真ん中が石川。撮影者:マシュー