エベレストの犬。 

4月25日

 朝起きると、保湿クリームがかき氷のようにシャリシャリになっていた。キールズというメーカーの保湿クリームとリップクリームを知人にいただいて、使っている。おかげさまで、日焼けはしまくっているが、肌の調子は悪くない。グリーンランドだか南極だかで使われた由緒あるクリームらしいが、ここBCでは凍って溶けてを繰り返している。大丈夫かな。

 ダイニングテントで朝食を食べていると、頭上を飛ぶヘリコプターの音がした。この日記に何度か登場した刺青のアメリカ人、通称チム、本名デイビッドがチャーターヘリで帰国した。エベレストに登頂したら首の後ろに“サガルマータ”と刺青を入れるんだ、と意気込んでいた彼だが、高所での生活がイヤになってしまったらしい。ロブチェピークで二泊の順応も終えたのに、もったいないと思う。

 エベレストにただ登るだけなら、テクニックはあまり必要ない。二ヶ月におよぶ高所生活に耐えられるかどうか、ということのほうが重要になってくる。ぼくは適当な感じで毎日を過ごしているが、慣れない人は5000メートル以上の場所に長くいると、精神的にも肉体的にも、どんどん消耗していく。環境の変化に敏感な人はなおさらだ。枕が変わると眠れないという人は、どんなに体力があって、登山技術に長けていても、登れないのかもしれない。

 数日前の日記に、「Seabuckthorn」ジュースについて書いたら、ナムチェで出会ったJICA青年海外協力隊の方からメールをいただいた。以下、メールを引用する。

「ちなみに、あの謎のジュース「Seabuckthorn」は、私の周りのネパール人は「シーバクトン」と呼んでいます。ムスタンやランタンにも生息していて、季節になるとおばちゃんたちが軒先で作っています。カトマンズでもたまに買えるのですが、山小屋でホットで飲むのがたまらなく美味しく感じます。」

 とのこと。なるほどシーバクトン・ジュース。ここクンブーだけでなく、ムスタンやランタンにもある果物なのか。教えていただき、どうもありがとうございます。ペリチェでパンフレットをちらっと読んだときには、フェアトレードの製品ですよ、というようなことも書かれていた気がする。エベレスト街道を訪ねる皆さん、シーバクトン・ジュースをぜひ飲んでみてください。

 タルチョが舞うベースキャンプの丘に登ってNcellを繋ぎ、日記更新をするというのは、なかなかしんどい作業である。風にさらされ、手がちぎれそうな寒さのなかでパソコンを開き、手の感覚がなくなる前にメールの送受信を完了させる。そしてまた息を切らせながらテントに戻るのだ。

 今日、その作業を終えてテントに戻り、入口を開けると、ぼくは絶句した。毎日眠っているマットの上に、見ず知らずの犬が寝ていたのだ。なんなの、きみ・・・。

 「なにやってんの!外に出なさい」と言っても、無視。首根っこをつかまえて外に出そうとすると、ようやく「クーン」と鳴く。うちの実家で飼っているレオという名の大きな犬と似たような大きさで、まったく動く気配がない。「おい、ここはおれのテントだぞ」と言って無理矢理動かそうとするのだが、ぴくりとも動いてくれない。仕方ないのでぼくはテントの奥に入り、内側から、犬と相撲をとるようにして、外に出ていただいた。押し出し。ぼくは犬好きだが、ルクラからトレッカーと一緒に一週間かけてBCまで歩いてきた、とんでもない野生臭のある犬と添い寝できるほど器量は広くない。
 そして、彼(彼女?)がテントから出て行ったあとには、大量の犬の毛と犬の臭いが残された。

 この犬、どうやらベースキャンプの主のような存在で、他のメンバーが留守の時に、テントに出入りしながら時々居眠りしていたらしい。去年は、アイスフォールの梯子を渡って、C2の先、ローツェフェイスの取りつきまでたどりついた犬がいたが、ぼくのテントで勝手に寝ていたこの犬も相当な放浪犬である。武田百合子さんの『犬が星見た』を突如思い出す。うーむ。

 午後、倉岡さんのベースキャンプに遊びに行った。日本人は女性二人、男性一人の三人。さらに三人のインドネシア人を合わせて、6名の登山者をエベレストの頂に導こうとしているスーパーガイド、それが倉岡さんである。

 ピーナッツとクッキーと日本茶と、さらに温めたチャン(ネパールの酒)をごちそうになった。アイスフォールの状態が、今年は極めて悪く、氷がもう少し落ち着かないと上にあがれないという。

 昨晩、プルバたちがアイスフォールを越えてC2に向かった。頂上までのルート工作を終えるまで、彼らは帰らない。そこには危険なアイスフォールを何度も行き来しないという考えもあるのかもしれない。

 ちなみに倉岡さんたちのベースキャンプにも、さっきの犬が現れていた。あの犬がヤクに吠えかかっている写真を見せてもらったが、ぼくにはそんな勇ましい態度を見せてくれていない・・・。

 倉岡さんのベースキャンプを後にすると、寒さが突き刺すような冷気に変わっていた。さらに奥のほうにあるレスキューテントで、氷河を写した写真展が開催されていると聞いて、それを見に行こうと思ったのだが、寒かったのでやめることにする。

 夕食は、鳥の丸焼きが出た。刺青のチムがカトマンズに戻るためにチャーターしたヘリが、ここまで鳥肉を持ってきてくれたようだ。チムは、HIMEX隊のシェルパ(キッチンも含む)お礼として一人一人に300ドルを置いていったらしい。おかげでシェルパたちは大喜びである。チムさまさまだなあ。

 夜、満天の星が輝いていた。世界は美しいな、と心底思える場所はそうそうあるわけではない。あの犬もどこかでこの寒空の下で星を見ているのだろうか。

*写真は、ぼくのテント内で勝手に寝ていた犬。決してやらせではありません。テントの入口を開けたとき、腰を抜かしそうになりました。入口のジッパーは最後まできちんと閉めたほうがよい。