史上最悪なエベレスト。(モノのたとえではなく) 

5月4日
エベレストBC

 ぐっすり眠れた。標高5000メートルなら、走ることもできる(息切れはするだろうが)。シャワーを浴びて、洗濯をし、テントの裏にできた水たまりを石で埋める工事をした。今日はエベレストBCにて、休息日である。
 昨晩、愛すべきビッグ・ボス、ラッセル・ブライスから重大な知らせ、すなわち「全ての登山活動を中止する」旨の通達があった。ロブチェピークの頂上で耳にした無線のやりとりから、だいたいのことはわかっていた。それは、今季のエベレストとローツェの状態に起因する。
 4月末にC1とC2のあいだで雪崩が起きたことはすでに書いた。それは悪いシーズンの幕開けを知らせる予兆に過ぎなかった。
 今年のエベレストはあまりにも雪が少なすぎる。昨年の秋以降、まとまった雪がほとんど降っていない。つまり、極度に乾燥している。それが何を意味するか。エベレストの最終キャンプがあるサウスコルに向かうための壁「ローツェフェイス」に、落石が頻発しているのだ。さらにBCの上にあるアイスフォールがほぼ毎日のように崩壊している。そのため、ルート工作に向かったシェルパたちに、負傷者が今日まで続出した。
 ローツェフェイスの上部にあるC3に張ったテントの多くは、落石によってつぶされた。8000メートル峰14座すべてに無酸素で、女性として初めて成功したガリンダが、今季、ヌプツェからローツェへのトラバースに挑戦するため、エベレストに来ている。そのガリンダがいち早くエベレストのC3、つまりローツェフェイスの上部まで登り、そこで一泊したのだが、夜中でも休むことなく落石が続いて非常に危険な状態だったという。そして、ガリンダは下った。
 去年のぼくの日記を見ると、この時期にはシェルパによって、すでに頂上までフィックスロープが張られている。一方で今年は、C3までのルート工作がやっとの状態で、サウスコルまでの荷揚げも済んでいない。すべてはアイスフォールの崩壊、ウエスタンクウムの雪崩、ローツェフェイスの落石という3つの悪要因のため、である。
 昨日、HIMEX隊のセカンド・サーダー(シェルパ頭の次)であるドルジのお兄さんが頭に落石を受けて、右半身が麻痺し、ヘリでカトマンズに運ばれた。ドルジも付き添って、BCを後にした。他の隊のシェルパは、顎に落石を受けてヘリで搬送された者や、腕に落石を受けて負傷した者、そのほか怪我人が多く出ている。
 ローツェフェイスの通常のルートは危険ということで、各隊が知恵をしぼって、その左右から新ルートを探したりもした。しかしロープを張るに値する別のルートは見つからなかった。
 C2にはすでにHIMEX隊のエベレストチームが入っており、C3で一泊という順応を行うべくスタンバイ中だった。しかし、ローツェフェイスがこの状態なので、誰もC3に上がれない。そして、ラッセルは、登山活動を中止する決断をした。当然の決断だろう。例えば雷が鳴り響くなか、多分大丈夫とふんで、出発をうながすガイドがいたら、そういう人間はガイドになれない。参加者がどれだけ行きたいと思っていても、不平をぶつけられても、リーダーやガイドはリスクを冷静に見極めなければならない。
 というわけで、一週間のC2滞在を終えたすべてのメンバーと、すべてのシェルパが、今日、BCに下ってきた。メンバーは誰もC3に上がれず、シェルパもC3以降のルート工作ができないままである。こんなことは、今までのHIMEX隊の遠征では一度もなかったことだ。
 エベレスト南東稜のルート工作をリードするのは、HIMEX隊とIMG隊のシェルパであることは何度も書いた。彼らが下る決断をしたということは、フィックスロープがしばらく張られないままになることを意味する。
 こうしたルート工作は、シーズンはじめに隊の代表者を集めて会議が行われ、10000メートルにおよぶロープをそれぞれの隊が分担して行う。なかには代表者をよこさず、フィックスロープが張られた後に、無断でそれを使って登ってしまう小さな隊も存在する。彼らがもしノーマルルートで登るのであれば、シェルパの力を提供するなどしてルート工作を手伝わない限り、少人数で来ているからといって賞賛に値するものではない。エベレストのノーマルルートにおいて、フィックスに一度も触れずに登ることなどありえないからだ。ちなみに、今季はインド隊が、規模が大きい割に分担金を払っていないと聞いた。
 というわけで、今季はまだ頂上までフィックスロープが張られていないので、無理に登ろうとする隊は、昔のロープなどを頼りに登ることになるだろう。もしかしたら、そろそろ登頂者がぽつぽつと出ることになるかもしれない。が、まともな隊は、ローツェフェイスの落石のため、しばらく登山活動を中止することになる。
 今季のエベレストBCには、登山界のスターが揃っている。前述した8000メートル14座無酸素女性初のガリンダ(オーストリア)、人類の課題ともいうべきローツェとエベレストの縦走に挑むシモーヌ・モロー(イタリア)、スピード登山のウーリー・シュテック(スイス)、ナショジオにバックアップされたコンラッド・アンカー(アメリカ)。さらに我がHIMEX隊のガイド陣には、最強ガイドのエイドリアン(アメリカ)、ピオレドールを創設したフランソワ(フランス)、エベレスト無酸素に成功している軍隊上がりのハリー(イギリス)などもいる。HIMEX隊ではないが、今年登頂すれば日本人最多エベレスト登頂タイとなる倉岡さんもいる。選りすぐられた登山界のトップランナー、あるいは素晴らしき狂人ともいうべきこれらの面々が、このまま手をこまねいているとは思えない。
 ウーリーは、タボチェ・チョラツェ・アマダブラムという三座のスピード登山を終えてエベレストBCに帰ってきた。コンラッドは、相棒のカメラマンが高山病で下山したため、西陵から登る計画をノーマルルートに変更して、まだあきらめていない。
 地球のあちこちから個性的な役者がそろい、さらにその舞台は世界の最高峰である。これが山岳小説なら、今から最高の展開が期待できる。しかし、目の前の光景は、小説ではない。現実である。
 エベレストはともかく、ぼくが登ろうとしているローツェの頂は、懸案のローツェフェイスの上にある。奇跡的にドカ雪が降って落石が少なくなっても(そんな天気予報は出ていないが)、大雪は雪崩を誘発する。雪が降っても降らなくても極めて危険な状態で、「ローツェは、今年はないんじゃないか……」という話もちらほら聞こえてくる。
 んー、今年ローツェは登れないかもしれない……。ラッセルの親友で毎年エベレストに来ているヘンリー・トッド曰く、「今季のエベレスト(とローツェ)は、この20年間で最悪の状態」だという。
 逆にマナスルやダウラギリは雪が降りまくって、マナスルにいたっては2メートルもの積雪があると聞いた。これはこれで逆に雪崩の危険があって危ない。山が違えば、同じヒマラヤといえども状況はまったく異なる。
 さて、今シーズンのヒマラヤにおける登山は、各地でどんな結果をもたらすのか。HIMEX隊には負傷兵の登山を撮影するための大がかりなフィルムクルーも来ているし、それぞれの登山者はエベレスト登頂という強い夢を抱いて、本当に世界中から集まっている。長い時間と決して少なくないお金をかけているということもあって、すぐにはあきらめられない連中ばかりだ。そして、ぼくもローツェからエベレストを撮影したいという願望を持っている……。
 しばらくはBCで様子見となるだろう。一人の記録者として、とにかく見届けたい。今季のエベレストとローツェに関わる全ての登山者の今後を、ぼくは見届けたいと思う。