HIMEXと公募隊に関する走り書き。 

9月19日

 6時頃に寝袋から這い出て、一面雪に覆われたベースキャンプの撮影をした。今朝はめずらしく晴れて、上空には青空が広がっていた。テントを出て目の前のバレーボールコートに足跡をつけた。そして小便ついでにトイレの裏からIMG隊のBCを撮影したり、サマゴン村へ向かう山道のほうを撮影した。今日までに使ったフィルムは20本ほどだ。コダックポートラ160は、まだ何十本も残っている。

 深沢七郎の『庶民列伝』に、やたらとおならをしまくる船頭の話があった。ぼくはそれを思い出しながら、放屁する。食べ過ぎということもあるのか、おならがよく出る。そうでなくても高所では通常よりも多くのおならが出る。去年の春のことだったか、今年の春のことだったか忘れたが、エベレスト街道のペリチェでHRA(ヒマラヤン・レスキュー・アソシエーション)の高山病に関する講義を聞いたとき、アメリカ人の若い女医が、高所における放屁について話していた。気圧なども手伝った環境の変化により、高所ではおならがよく出るようになる、と。(その女医は、ガイドのブルースにナンパされて、いつのまにか二人はつきあい始めていた・・・)。

 今日もまた休息日である。三食なにを食べたか、すっかり忘れてしまった。人は必要に駆られて食べたもののことはしっかり覚えているが、「食事の時間がきたから食べた」もののことは忘れてしまうのかもしれない。今日まで何を食べたかぼくが日記に書けたのは、最初はお腹を壊していて調子が悪く、その後は順応のために必死に体調を整えようとして、食に対して意識的になっていたからだろう。お腹が治り、順応も済んだ今、食への過剰な意識を、ぼくは失いかけている。

 ヒマラヤの8000メートル峰登山とは何か、ということを考えている。世界に14座ある8000メートル峰は、ヒマラヤン・ジャイアンツなどと呼ばれて、パキスタンやインドやネパールやチベットに連なるヒマラヤ山脈上にその頂を突きだしている。

 未踏だったそれらの山に登頂することは、当時の山男たちの夢だった。新田次郎の『孤高の人』を思い出してみるといい。加藤文太郎は、日本の雪山の難ルートを一人で攻め続けながら、あらゆることを話せる関係にあった奥さんにも恩師にも内緒で、ヒマラヤへ行くための秘密の貯金を続けていた。ついに厳冬の槍ヶ岳から北鎌尾根で遭難死してしまうまで、彼はその夢を捨てなかった。

 加藤文太郎がヒマラヤを最後まで夢見ていたという設定は、あるいは新田次郎の過剰な思い入れがそう描かせたのかもしれない。しかし、そうした筋書きは、少なくとも当時の登山家たちの想いを緩やかに代弁していたように思う。

 それから年月が経ち、ヒマラヤは大衆化した。特に1996年のエベレストにおける大量遭難は、公募隊への批判を増加させた。この遭難の顛末はジョン・クラカワーの『空へ』(文藝春秋)に詳しい。遭難者の中に日本人が含まれていたことから日本でも注目を浴びることになり、これを境に公募隊への批判的な論調が山の世界において目立つようになった。「素人が金を払えばエベレストに登れる時代が来た」という皮肉をこめたものが、そのほとんどだった。

 古い世代には、この1996年に沸き上がった批判的な論調を未だに引きずっている者も多い。あれから15年以上の年月が経ち、ぼくには時代遅れとしか思えないそうした態度は、まだ少なからず人々に共有されている。

 今回のHIMEXのマナスル登山にはKさんという30代の女性が参加している。手洗い洗濯をするためのビニール手袋はまだしも、顔に装着する美白パックを6000メートル以上のキャンプに荷揚げしている姿を見てぼくは絶句したが、これも新しいヒマラヤ登山の姿かもしれない。一昔前は、頂上を目指すために1グラムでも荷物の重量を削り、隊のために私的な荷物をあきらめなくてはいけなかったわけだが、そういう時代はすでに終わったのだ。

 マナスルに立ち返れば、ベースキャンプにバレーボールコートが作られて、各隊のシェルパが毎日のようにバレーボールの試合に汗を流している。こんな暢気な光景は、日本隊がマナスルに初登頂した時代には考えられなかったことである。

 ヒマラヤにおいて1シーズンに1隊の登山隊のみが登山を許されていた日々はとうの昔に終わり、エベレストにもマナスルにも何十隊もの隊がひしめきあっている。そこで混乱が起きないよう、優秀なシェルパを揃えてイニシアチブをとる隊が現れた。その隊こそがヒマラヤン・エクスペリエンスであり、それを率いたのがラッセル・ブライスという人だった。

 ラッセルは1996年のエベレスト大量遭難をふまえ、ロブ・ホールの轍を踏まないように、慎重に遠征を指揮した。参加者にはあらかじめ山の経験を尋ね、特にエベレストに関しては、事前に8000メートルを経験したものでなければ参加を断ることもあった。まずは6000メートル峰に登ってもらい、その次に、昔はチョオユー、今はマナスル遠征に参加してもらい、そうした経験を積んだ上でエベレストへと向かわせた。

 また、ラッセルは、ロブ・ホールの失敗の一因を、事前の登頂日設定にあると考えていた。ロブ・ホールは非常に優秀なガイドだったが、エベレストのタクティクスに関して、自らの経験から登頂日を○月×日とあらかじめ決めて、それに向かって順応し、スケジュールをきっちり守ろうとした。ラッセルは、それが遭難を招いた一つの要因だと考えている。天気は当然変わるものであり、その場その場で柔軟な対応をしなければいけない。多額なお金が動いているうえに、実績を出したいあまり、隊のリーダーは、無理をしがちである。ラッセルはこれまでの遭難を徹底的に分析し、二度とその轍を踏まないようにした。そのためには、参加者になじられようが、詰め寄られようが、罵声を浴びせかけられようが、決して無理をせず、幾種類もの天気予報を取り寄せて、たとえそれが前日や前々日の決定になろうとも、慎重に登頂日を設定することを厳守した。アタックの決定を下してメンバーが上部キャンプへ出発した後でも、天気予報が変われば、冷酷に「引き返せ」と指示する。他の誰にも左右されない、揺らぎのない決断力と自分への信頼、それをラッセルは長年の経験から身につけるに至ったのだ。

 クムジュン村出身のプルバ・タシという類い希な能力を備えたシェルパと出会ったこともラッセルにとっては大きかった。ラッセルはヒラリー卿と同じニュージーランド出身で、現在はシャモニに住んでいる。それまでのヒマラヤ登山隊とラッセルのやり方が決定的に異なるのは、シェルパとのつきあい方である。シェルパを登頂のための労働力と考えるのではなく、仲間として対等な信頼関係を築く、それは簡単なようで、難しいことだった。特にネパールのような途上国を、下に見ることに慣れた西欧諸国(日本も含まれるだろう)の人間にとって、自分たちの目標を達するために犠牲もやむをえずと考えたとき、その先頭に立たされたのがシェルパたちだった。その昔、登山は特権階級に許された遊びだったわけで、その名残は、今もまだ登山という行為のあちこちに散見される。そうしたイヤらしさが全て払拭され、さらに日本独自の修験や山岳信仰などの文化的背景を理解された先に、日本における新しいアルピニズムが生まれるとぼくは考える。

 話が逸れた。ともかくラッセルは、そうした主従関係を一から見直し、ヒマラヤ登山におけるシェルパの扱いを劇的に向上させた一人だった。専用の装備を与え、専用の寝床を与え、無線やビーコンを貸し与え、登攀技術を教え、給料を引き上げた。各国の隊が優秀なシェルパを選ぶのと同じように、今はシェルパたちが、隊を選ぶようになっている。当然のことだろう。それは待遇のよい隊と悪い隊の差が歴然としているからである。

 待遇の差は、シェルパ自身の生死とも関わっているので、彼らも慎重だった。中でもプルバは、クンブー地方のシェルパに名が知られており、他隊のシェルパもプルバの言うことはきちんと聞く。そして、ラッセルもまたプルバの意見に耳を傾け、彼の意見を尊重した。ラッセルはプルバと共同してヒマラヤ登山を進めていく姿勢を、最初期から崩していない。

 こうしてラッセル・ブライスが築き上げた「ヒマラヤン・エクスペリエンス」という公募隊は、文字通り、「ヒマラヤの経験」を身近なものにすることに成功した。ただ身近にしたのではない。その危険を知り尽くしたうえで、アプローチを容易にし、正しい順序を踏んで、その頂に近づくための手段のひな形を作ったといえる。

 それは旧来のヒマラヤ登山、すなわち戦争に行くかのように隊を組み、「頂上を攻め落とす」ことを目的に、シェルパや登山者が隊のコマのように扱われる極地法からはかけ離れた遠征の形である。また、少人数におけるアルパインスタイルでヒマラヤへ望むほどの技術を持たない者にとって、ラッセルが作り上げたようなチームに参加することは、無理のない形でヒマラヤを経験できる数少ない術となった。そこに1996年当時の批判はあてはまらない。そればかりか、HIMEXのような公募隊は、シェルパの地位を向上させ、安定したフィックスロープの設置とその分担によって遭難者を減らし、シェルパや環境に対する登山者の意識を引きあげることにおいて、よっぽど建設的な役割を果たしているといえよう。

 時代が進むにつれて、未知の場所が既知の場所となって、来訪者が増えるのは必然の理である。それを規制によってどうにか留め置くという方法もあるだろうが、ネパールやチベットが政府として門戸を開いている限り、外からやってきた外国人がそれを閉じたり、規制したりすることなどできない。ならば、それに合った登山のスタイルが必要であり、自らによるルール作りが必要となってくる。

 もはやヒマラヤが加藤文太郎の思い描いた未知のヒマラヤではない以上、ヒマラヤン・エクスペリエンスのような公募隊は、不可欠に違いない。むしろ、こうした隊がいなければ現代のヒマラヤは恐ろしいカオスになるだろう。「昔はよかったというノスタルジアからは何も生まれてこない」と言ったのは、ぼくが敬愛する星野道夫だった。未知のフロンティアとしてのヒマラヤ14座はすでに幻想の彼方にあることをしっかりと認識し、その経験に見合った費用を支出してヒマラヤへ向かうことは、世界から見れば当たり前であることをぼくたちは知る必要がある。HIMEXが掲げる遠征、すなわちエベレストもローツェもマナスルも、そのやり方自体は「先鋭的な登山」とは異なるが、「最先端のヒマラヤの現状」を知るためにはうってつけである。あらゆる意見を踏まえたうえで、HIMEXのような公募隊は、ヒマラヤを経験するための正しい方法の一つとしてそこに在る、とぼくはいま言い切ることができる。

*写真は、マナスルのベースキャンプで、バレーボールの試合に興じるシェルパたち。左側の灰色の服を着たのがHIMEX隊のシェルパ、右側の黄色いユニフォームを着たのがIMG隊のシェルパである。HIMEXはヨーロッパを代表する公募隊であり、IMGはアメリカを代表する公募隊であると言える。どちらも極めて優秀なシェルパを擁する。