頂上へ:その1、(BC→C2)。 

9月26日:BC→C1

 長袖アンダーウェアの上に、Tシャツを着て登りはじめる。マウンテンリサーチの「安全第一」Tシャツ。小林さん、ありがとうございます。小さなクレバスをいくつも越えて、C1に3時間で到着。

 アメリカ人プロゴルファーのダリルは、なんとC1にたどり着けず、体調不良を訴えて下山。まず一人、リタイアが決まった。

 夕食はアルファ米に、フリーズドライの親子丼のもとをかけて食べる。まずいような、美味しいような・・・。高所に来ると味覚が麻痺してくる。テントはいつものようにMさんとシェア。

9月27日:C1→C2

 C2に3番目に到着。C2に到着直後、見ず知らずの人間が勝手にHIMEXテントで寝ており、それをSさんとGくんが発見。HIMEXのC2の裏にテントを張っていた、コロンビアだかベネズエラだかわからないがとにかく南米からきた登山者だった。C2に到着したガイドのブルースが、彼らに詰めよる。高所にデポしていた酸素ボンベなどを勝手に使われて、遠征自体が終了した例は、これまでに枚挙に暇がない。デポに関して、すべての隊が神経質になっている。そのなかで、見ず知らずの登山者が、勝手にHIMEXテントに入り込んでいたという事実・・・。結局、彼は何も盗っていなかったが、勝手に他人のテントに入り込んで昼寝をしていた模様。なぜ自分のテントで寝ないのか?「うちらのテントはホテルじゃないんだぜ」とブルースが切れて、向こうは英語ができない振りをしながら、スペイン語で必死になって弁解している。彼らのエージェントはタムセルク。シェルパレスだったが、そこまでの実力はまったくなく、C2から早々に下山していった。

 C2もMさんとテントをシェア。C2に来ると必ずMさんは調子が悪くなり、吐いてしまう。Mさんは医師なので、薬などはふんだんに持っている。C2に着いてから吐き気止めを飲んだようだが、さらに吐き気止めの注射も打つという。「注射器なんて持ってきたんですか!」とぼくが驚くと、BCに常駐している医師のニマにもらったと。

 筋肉注射としてお尻に注射を打つので手伝ってほしいと言われたが、ぼくには無理だと思った。「田村さんにやってもらったほうがいいですよ。ぼくはホント無理です無理です」などと言って断った。ぼくは注射が大嫌いで、打たれるのも絶対にイヤなのに、他人に打つなんてもってのほかである。ネパール製の注射針は太く感じたし、しかもここは病院ではなく、標高6300メートルのテントのなかなのだ。

 「自分が手伝うので大丈夫大丈夫」などと言いながら、小さなテントの中で、おもむろにMさんはパンツをずり下げはじめた。マジですか・・・、と再び断るまもなく、Mさんは自分のお尻の右側の肉をつまみ「ここに打ってもらえますか」という。男性の尻に触れるのも、尻の肉をつまむのも、自分にとっては衝撃的な初体験であった。

 Mさんから注意事項が伝えられた。筋肉注射なので、針の刺さり方が浅いとダメということ。針を刺して、引くときに血液がまじっていると、それは刺さり方が浅いか何かで、筋肉注射ではなく静脈注射になってしまうというのだ。それから、あんまりゆっくり刺すと痛いので、一息にやること。などなどを、尻を出した状態で言われて、心底あせった。

 ぼくは横になっているMさんのお尻の肉をおそるおそる右手でつまみ、言われた場所に無心で注射針を刺した。「浅いとダメ」と言われた言葉が深く心に残りすぎていたようで、言われたよりも深く刺してしまった気がする。どう考えても痛いだろうに、Mさんは一言も「痛い」なんて言わないどころか、表情を変えずに無言であった。さすがお医者さんである。

 注射針を引いても血は混じっていなかったので、きっと筋肉に届いていたのだろう。針を抜くと、専用の綿みたいなもので、Mさんは尻をさすっていた。ちょっと押さえる程度ではなく、何分かさすっていたので、今から考えると結構痛かったのではないかと思う。他人のお尻に注射を打つ、というぼくの初体験は終わった。こんな経験をさせてもらえたのはありがたいことではあるが、アタック日の朝より緊張する一瞬であった。

 薬と注射によってMさんの吐き気はおさまったようだが、調子が一気によくなるという風でもなく、時間は過ぎ、16時になった。そろそろ夕食を作らないといけない。いつものように雪からお湯を作り、ぼくはアルファ米に缶詰のさんまと、Mさんからいただいた塩海苔などをバリバリと食べた。Mさんは、アルファ米と「〇〇シェフ秘伝のカレー」を食べようとしていた。「〇〇シェフ秘伝のカレー」というのは、名前を聞くからに美味そうであり、アタックに向けて、この日までとっておいたに違いない。みんな頂上へ向かうときの食事は、とっておきのメニューを考えているものだ。

 15分経ってアルファ米ができた頃になっても、Mさんは起き上がらない。気持ち悪い状態が再びぶり返したらしく、吐かないまでも横になった状態が続いた。一度は食欲も回復したと思われたが、また食べる気は失せてしまったようで、アルファ米は二度と開封されることがなかった。「〇〇シェフ秘伝のカレー」もついにその味が試されることはなく、他人のメニューながら、そのカレーがどれほどのものかちょっと気になった。

*写真は、C3からC4のあいだにて。