ローツェに登頂しました! 

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 5月17日、午前10時12分、標高8516メートルのローツェの登頂に成功した。シェルパのプラ・ツェテン(プラ君)と二人で頂に立った。プラ君は、昨秋、マナスルの頂に一緒に立った若いシェルパである。

 ぼくたちは、17日朝7時にローツェのキャンプ4(標高7900m)を出発した。当初は深夜3時頃の出発を予定していたが、風が強く、その日は時間が経てば経つほど風が弱まるとの予報があり、出発を日の出後に遅らせたのだ。

 ガイドのスーザンとラクパ、オランダ人のレネとタシ、Sさんとギャルツェン、そしてぼくとプラ君という組み合わせで、4組が同時にキャンプ4を出発したが、ぼくはロケットのように飛び出し、プラ君と二人で、ずっと先頭を切って登った。この日、誰一人としてぼくたち二人の前に出ることはなかった。

 C4は急な斜面の中腹にある。雪をカッティングして畳数畳ほどの平面を作ってそこにテントを設営している。だからC4のテントを出るとそこは斜面の只中で、ロープで体を確保していない状態で転びでもしたら、ローツェフェイスを真っ逆さまということになる。

 テントを出てすぐに直登がはじまる。風が駆け下ったり、駆け上ったりする急斜面を登っていくと、ローツェフェイスの端にある岩場に出る。そこを真横にトラバースしていくと、ローツェ・クーロワールの入口が見えてくる。

 とにかく風が強い日だった。この日、エベレストの登頂者は出たのだろうか。この日の天候では、ローツェはエベレストほど風の影響を受けないので、かろうじてアタックに入ることができたわけだが、エベレストの登頂者がこの日にどれほど出たのかは不明だ。もし登頂できたとしても、おそらくわずか数名ではないか。ともかく、目出帽とサングラスの隙間にも、刺すような風が吹き付ける。細かい氷や砂利が飛んできて、痛い。強い風が斜面に「吹く」というよりは、四方から「滑り降りてくる」感じだった。

 胸には、熱湯のほうじ茶を入れた500ミリリットルのナルジンを入れていたし、3つのカイロを腹や胸に貼り付けていたので寒くはなかった(これは胸ポケットに入れたデジカメの電池を長持ちさせるための策でもある)。朝食はスライスした餅入りのおしるこを食べ、くるみだとか干し納豆だとか干しマンゴーを頬張ってきたので、カロリーが体を暖かく保ってくれている。

 岩場を右に、真横にトラバースしていくと、ローツェ・クーロワールの入口が見えてくる。ここからクーロワールを真上に直登していく。これが噂に聞いていたローツェ・クーロワールか、と思った。両側を岩に囲まれたせまい通路である。

 クーロワールを少し上がったところで、先行していた他隊の三人を追い抜かした。どこの隊だったのだろう。とにかく弱い三人で、深夜に出発したと思われるのだが、やたらと遅かった。この日、出会ったのはこの三人のみで、エベレストのように渋滞に遭遇することもなければ、他人の尻を見て登る必要もない、極めてすがすがしい登山となった。

 ローツェ・クーロワールはすぐに終わるものだと思い込んでいた。しかし、それは違った。果てしなく長いクーロワールで、頂上に向かって一直線に向かう煙突のような場所だった。人一人が通れるような隙間から学校の廊下ほどの広さまで、狭くなったり広くなったりしながらクーロワールは続いた。雪は少なく、砂利や岩が、小川のせせらぎのように音もなく流れ落ちてくる。下に仲間がいるわけだから、大きな岩を落とさないように注意しながら登った。手で握れるような小さな岩でも、平気でヘルメットを割る。気を付けなければならない。

 雪が凍って玉砂利のようになった状態、あれをなんというのだろう。見たことのない雪の形、すなわち白い玉砂利のような雪氷が所々にたまっていて、踏みつけると、これもまた音もなく流れていく。沢登りをしているような感覚だが、流れ落ちてくるのが水ではなく、雪や氷や砂利や岩で、そうした小さなものたちのせせらぎをスローモーションで見ているかのようだった。

 ぼくはほとんど止まらなかった。クーロワールの中で、1分も止まっていなかったと思う。数歩登っては数秒止まるのを繰り返して、とにかく煙突の先の光を目指した。後ろにはプラ君しか見えない。プラ君は、ぼくが三人を追い抜かすと、同じように彼も三人追い抜かしてきたし、ぼくが少し立ち止まっていると、きちんと距離を詰めてきた。彼はマナスルのときに比べると、だいぶ頼もしくなった。

 煙突は長かった。ここを越えると出口か、と思うとそうではなく、まだ通路が続く。その繰り返しの後、ようやく頂上らしき岩の塊が見えてきた。「あれか」と思うと同時に、岩の中ほど、右横にオレンジ色の何かが見えた。昔の登山隊がデポした酸素ボンベとかだろうか。まったく仕方ないなあ。ちゃんと持って帰れよ。などとそのときは思った。

 頂上の岩に少しずつ近づいていくと、そのオレンジ色の何かがモノではないことがわかった。人、だった。岩に座るようにして、腕をだらりと伸ばし、頭を横に傾けている。それが遺体だとわかったとき、愕然とした。

「……」

 ぼくは、無言でプラ君を振り返った。プラ君も無言でうなずく。後でビリーに聞いたところによると、それは去年亡くなったポーランド人だかチェコ人の遺体だった。頂上からわずか20メートルほど下である。

 ロープは無情にも、その遺体のすぐ左横を通って、頂上へとのびている。ぼくは遺体と対面せざるをえなかった。その人の肌からは水気が失われ、顔の表面はプラスチックのようになっていた。口が少し開いている。マウンテンハードウェアのダウンスーツはまだ新品同様で、装備はぼくたちと同じようなものである。なぜここまで来て、彼は動けなくなったのか。頂に立った後なのか前なのか……。

 「頂上に行ってきます」と遺体に手を合わせ、岩場を登っていく。ジグザグに登っていけばもっと楽だと思われるのだが、昔のちぎれかけたフィックスロープも、今年のフィックスロープも直登を示している。垂直とは言わないが、あまりに壁になっているので、本当にここをこのまま登るのか」とプラ君にジェスチャーすると、彼は「そうだ」と言う。なので、とにかく、力を振り絞って無理矢理登った。

 頂上付近には雪があった。二本の足で立てるような場所ではなく、座るように頂上に到着した。午前10時過ぎ。C4からわずか3時間ちょっとで登り切ったことになる。プラ君と握手をして、無線でBCに連絡を入れる。雲より高いところにいるので、空に雲は当然なかったが、とにかく風が強くて、ちょっと油断するとまずいことになる。

 頂上に座ると右手にエベレストが見える。まったく見たことのなかったエベレストの姿がそこにあった。バルコニーも南峰も頂上もここからは見える。思った以上に鋭角な三角形をしていた。二年前に立ったあの頂を、ぼくは今、その隣から眺めている。ヒマラヤを、エベレストを知るための旅が、この瞬間ついに完結することになった。

 ぼくは頂上で写真を何枚か撮り、プラ君を撮ったり、自分自身を撮ってもらったりした。頂上には、マミヤ7Ⅱ(フィルムはコダックポートラ400)とキャノンのEOS6Dの二台を根性で持ち上げ、さらにキャノンのコンパクトデジカメを持って行った。サングラスを外せなかったので、全身の感覚で撮影するしかなかった。EOS6Dのファインダーも凍り付いて見えなかったが、とにかくシャッターを切りまくった。

 突風が四方から吹き付けてきて危険なので、数分滞在した後、すぐに下山にとりかかる。この頂上からアームラップで下る自信がなかった。斜度が急すぎる。しかも岩場だ。ぼくはATCを使って懸垂下降に入った。頭は働いているので、手順を間違えることはない。

 懸垂下降をしていくと、右手に再び遺体が見えてきた。遺体の左横を通過した。しかし、なんでここに置き去りになっているのか。クレバスに落としたり、ソリで引きずり落としたりしないのか。そんなことを考えながら、ゆっくり下降した。

 アームラップで下れるような場所に入ってから、ローツェ・クーロワールを、スーザン&ラクパ組が登ってくるのが見えた。次にレネ&タシ組、そしてさらにだいぶ下ってから、追い抜かした3人組がいて、そしてその後をSさん&ギャルツェン組が登ってくる。

 スーザン組が4時間ちょっと、レネ組が4時間半、Sさんが6時間以上かけて頂上に立っている。酸素ボンベはC3で眠るときから使用した。それにしても、C4から頂上まで3時間ちょっとという時間はあまりにも早く、BCに帰ってから「アイスフォールを越える時間とローツェ登頂と同じ時間かよ(もっと早くアイスフォールを抜けろよ、という意味)」とか「頂上にきれいな女の子でもいたんだろ」などとみんなにからかわれた。このスピードに何だかんだでついてきてくれたプラ君にも感謝せねばならない。

 とにもかくにも、HIMEXローツェ隊4人は全員登頂成功。3人はその日中にC2に帰り着き、翌18日にBC帰還。Sさんのみ、登頂後にC2まで一気に戻って来ることができず、C3で一泊。18日にC2に戻り、本日19日午前にBCまで戻ってきた。クーロワールで追い抜かした三人組は、セブンサミッツクラブ隊の登山者とシェルパで、その日はC4までしか戻れず、翌日はHIMEXの無線にC3からの手助けは可能か無線で連絡してきたのだが、すでにHIMEXのC3には誰もおらず、何もできなかった。彼らは無事に下れたのだろうか。。

 隊長のラッセル・ブライスは常々言っている。大切なのは登頂ではない。五体満足でBCに帰ってくることだ、と。「たとえ登頂できても凍傷で指を失ったりすれば、その遠征は失敗である」と今回も出発前にはっきり述べていた。そうしたことを含め、あらゆる意味で、今回のHIMEXローツェ遠征は成功したと言える。

 昨日18日にBCに戻ってくると、ラッセルが病気で大変なことになっていたり、エヴェリーンがヘリでカトマンズに戻ってしまっていたり、いろいろあったのだが、それはまた通常の日記で書いていく。エベレストチームは、ぼくたちと入れ違いで、23日の登頂を目指し、18日深夜(19日午前2時半)にBCを発った。今ごろC2に到着する頃だろう。

 さて、これからBC出発から登頂までの日記を含め、日本に着くまでまたブログを書いていく。ローツェは、いい山だった。なんというか透明な感じのする山だった。あのローツェ・クーロワールという、垂直の煙突のような通路を最初に発見したのは誰なのか。その登攀の歴史にも興味を持ち始めている。なんだかエベレストよりも好きになりそうだ。

 2001年エベレスト(チベット側)、2011年エベレスト(ネパール側)、2012年マナスル、2013年ローツェ、こうして四度も8000m峰の頂に立てて、ぼくは本当に嬉しい。応援していただいた皆さま、本当にどうもありがとうございました!

 後日談も明日からまたアップしていこうと思います。

*写真はローツェ頂上から下を見下ろしたところ。影は、ぼくとプラ君。左の岩の下に遺体があるのだが、写真からは見えない。その下には右方へのびていくローツェ・クーロワールがある。プラ君にカメラを渡し、ぼくのことを撮ってもらったのだが、ぼくとプラ君の距離があまりに近く、青空バックの単なるポートレートになってしまった……。これからそういう写真もアップしていきますね。