登頂後日談。 

5月21日

 5月17日午前10時12分にローツェ登頂後、ぼくは一気にローツェフェイスを下ってC2に帰り着いた。C2で飲んだミルクティーの味は忘れられない。

 その日はC2で一泊した。ダウンスーツを脱いで、寝袋の下に敷いた。サーマレストは面倒なので膨らませなかった。フリースにゴアテックス上下を来て寝たが、寒くなかった。もう、ぼくは安全圏にいる。

 翌18日朝、アイスフォールを通過して、午前中にBCに戻った。わずか一週間足らずのあいだにアイスフォールは激変していた。マッシュルームと呼ばれていた巨大な氷塊が崩れており、ルートは変わっていた。梯子の数も増えている。

 アイスフォールドクターの仕事には頭が下がるばかりである。たった一週間でこれだけルートが変わるのだから、「アイスフォールを通過するためのルートのメンテナンスと維持」という仕事の困難さは、想像にあまりある。

 とにかくへとへとの状態でBCに帰り着き、シャワーを浴びて休息をとった。そして入れ違いで上部キャンプに出発するエベレストチームの面々と再会し、その日の夜、彼らを見送った。HIMEXのエベレストチームは23日の登頂を目指す。隊長のラッセル・ブライス曰く、次の23日は「ここ10年で最も天候がよい」と。

 というわけで、翌19日朝のBCからは、エベレストチームがいなくなり、ローツェとヌプツェから下山したメンバーだけが滞在していることになった。ちなみにヌプツェ・チームも全員登頂して下山した。公募隊による世界初のヌプツェ遠征、しかもガイドのフランソワ以外の3人のメンバーが全員女性(ジン:中国、エレン:アメリカ、ビリー:ドイツ)とあって、話題になった。リサーチを含めると三年越しの「ヌプツェ・プロジェクト」が2013年にHIMEX隊によって、初めて実ったことになる。

 隊長のラッセル・ブライスは、ぼくたちがアタックに入っているときにウィルス性の病気にかかり、寝込んでいた。どおりで無線にラッセルがほとんど出なかったわけだ。ぼくはほとんどサーダーのプルバと無線でやりとりをしていた。プルバはエベレストのパーミットしかとっていないので、ローツェやヌプツェには登らずに、BCでシェルパに指示を与えていたのだ。

 19日朝には、ラッセルがどうにか喋ったり動いたりできる程度に元気になっていて、ヘリコプター会社に連絡をとってくれた。すると、空きのあるヘリが翌日にはつかまえられる、という朗報が入った。フランソワ、エレン、レネ、Sさん、石川の5人は、そのヘリに乗ってカトマンズへ帰れることになった。

 ちなみに、BCからカトマンズまでのヘリ(シムリック社)の値段は8500ドルである。今のドルのレートがわからないが、1ドル=100円とするなら、85万円である。ラッセルなど顔見知りの割引があったとしても8000ドル。80万円は必ずかかる。

 ぼくたちはもともとルクラ~カトマンズ間をヘリで帰る予定だったので、支払うのはBC~ルクラ間だけの価格でよい。もろもろの交渉の末、一人500ドルでヘリに乗れることになった。この値段ならあの長い距離を数日かけて歩くという行為と、どうにか釣り合いがとれる。

 もともとぼくはヘリで帰ることに違和感をもっていた。歩けばいいじゃないか、と。昨春、BCで夕食を共にしたガリンダ(オーストリア人、女性初の8000m峰14座無酸素・シェルパレス登頂)も、ヘリを使うことに対して「I feel guilty…..」などと言っていたのを思い出す。しかし、現在はもう毎日何度も何度もBCの上をヘリが飛ぶ時代になってしまった。それだけエベレスト界隈ではヘリ移動が身近になったのだ。

 最近までヘリは標高5200mのBCまで飛ぶのが限界だったのに、今では標高6400mのC2まで平気で飛ぶようになった。ヘリといえば、ぼくたちがローツェに登頂したその日、あまりにも遅い先行の3人組を追い抜かしたことは、先日の日記に書いた。彼らは、台湾人一人とシェルパ二人の三人組で、19日の時点でまだC4に留まっていることが判明した。17日にローツェ・クーロワールで出会った彼らが19日になってもC4にいる。これが何を意味するかは推して知るべしだろう。酸素を吸いながらあの遅さで、しかもその後C4という超高所で動けなくなっているということは、前後にシェルパを従えていたあの台湾人の男性が、極めて衰弱していることを意味している。

 あのシモーヌ・モロー(ウーリーはすぐに帰国したのに、シモーヌがまだBCにいたことにも驚きだが・・・)の指示によって、18日にその台湾人のレスキューをヘリが試みたようだが、失敗に終わっている。ローツェのC4は見る人が見たらすぐにわかるが、ヘリのパイロットからしたら、数珠つなぎになっている登山者や、近くのサウスコルとごっちゃになって場所を特定できなかった可能性もある。しかも、ランディングが不可能な超高所の斜面にC4があるため、ロープをたらしたところで、要救助者をきちんと収容できた可能性は限りなく低かったのではないか。リスクがあまりにも大きすぎる。それでも7900mのC4に、ヘリがレスキューのために向かい、登山者の頭上を旋回したという事実には驚かざるをえない。

 19日の夜、アドベンチャーコンサルタンツ隊(AC隊)のガイドから、HIMEX隊のラッセルに無線で連絡が入り、翌日、C2からシェルパを派遣し、ローツェC4にいる要救助者のレスキューに向かうべきか連絡が入った。が、HIMEXのシェルパは全員エベレストチームのサポートにまわっており、手が空いているシェルパがいない。ただ、ちょうどそのとき、アジアントレック隊の代表であるダワ・スティーブンスがHIMEX隊の夕食に招待されて、ラッセルと同席しており、急遽アジアントレック隊からシェルパ二名をレスキューのために派遣することが決まった。

 その後、どうなったのかわからなかったのだが、本日21日付けのネパールの新聞『THE KATHMANDU POST』を読んでいたら、「Hsiao Shih Lee, 58, a Chinese citizen died on Monday morning. He developed altitude sickness on May 18 at the height of 8000m while approaching the summit of Mt Lhotse.」と出ていた。この記事には、「ローツェの頂に向かう途上、18日に高山病を発症した彼が・・・」とある。ということは、17日に彼は登頂できなかったのだろうか。そして、救助について話し合われていた19日夜の翌朝に亡くなったということは、AC隊やアジアントレックの隊のシェルパたちがどんなに強くても、間に合わなかったということになる。

 ローツェの頂上から20m下に取り残された遺体、そしてぼくたちとすれ違った彼・・・。ローツェは、そういう山でもあることを肝に銘じたい。台湾人の彼が、せめてC3に自力下山できる体力を残していたら助かったはずで、それを思うと悔しい。ラッセルには、有名な「30パーセント・スピーチ」なるものがある。ラッセルは登山者を送り出すときに、必ず言うのだ。「頂上に立ったとき、30パーセントの力を残しておく必要がある」と。頂に立つために全力を使い果たすのではなく、必ず下山のための力を残しておく。極めて当たり前の話だが、それができずに、命を落としてきた登山者がこれまでどれほど多くいたことか。

 20日朝、ぼくたちは予定通りBCからヘリに乗り込んだ。ヘリは、ペリチェで給油した後、ルクラに着陸。ヘリを乗り換えて、昼過ぎにカトマンズ空港に到着した。気温は33度。灼熱のカトマンズ空港で、ぼくたちはダウンジャケットを脱ぎ、Tシャツに着替えた。

 午後、タメルへ。火事になって燃えてしまったというピルグリムブックストアは、本当に焼け焦げて骨組みだけになっていた。ピルグリムブックストアの奥にはレストランが併設されているのだが、その台所からガスが漏れて引火したと聞いた。ピルグリムブックストアはカトマンズの良心であり、どこよりも豊富な本の品揃えを誇っていた。古い山岳関係の本も充実し、カトマンズに来たら一度は立ち寄って、時間を忘れて面白い本を渉猟する場所でもあった。非常に残念だ。知のアーカイヴがまた元通り復活することを心から望む。

 夜、「桃太郎」で食事をしようかと思ったが、店内をのぞくと閑古鳥が鳴いていて、どうにも入る気がしなくなり、付近を歩いていたら「東京居酒屋」なる怪しげな看板を発見した。新しくできた日本食屋のようなので、こちらに入ってみることにする。

 麻婆豆腐を頼んだらこれが大失敗で、ナポリタンソースに七味をふりかけて豆腐を混ぜたようなものが出てきた。確かにまずいはずなのに、もしかしたら少しだけ美味しいのではないか、と思ってしまう自分がいて、高所ボケだと考えられる。5200mから一気に街に降りてきたので、まだ体が街に慣れていない。

 他に「だし巻き卵」と「カッパ巻き」と「ご飯」を注文した。ご飯はともかく、卵焼きもカッパ巻きもどこか変なのだが、でもちょっとうまいかもしれないなと思ってしまう自分がいて、自己嫌悪に陥る。多分、今はどんな日本食を食べても、それらしければ美味しく感じてしまうことだろう。

 夜、ホテルに帰り着く。ずっとローツェのことばかり考えている。クーロワールを登っているとき、上ばかり見つめていた。風が吹き出してくる入口があり、その先に透き通った青空があった。あそこに行ったら何が見えるんだろう、あの先には何があるんだろう、と思いながら登っていった。でも、その場所にたどり着くと、またクーロワールが続いていく。再びあの先には何があるんだろう、あの場所に立ったら何が・・・、と考えながらひたすら上へ上へと登っていった。目の前には誰もいなかった。後ろにいるプラ君を信じ、ただただ頂上を目指せばよかった。幸せな登山だった。この瞬間はもう二度と経験できないんだ、と思いながら登っていたが、それでもまたあの空間に身を置きたいと思ってしまう自分がいる。

 21日朝、これからカトマンズ空港へ向かう。22日には日本に到着するだろう。ローツェの頂を目指した日から、わずか5日後には日本にいる。濃い空気の中にいる。何かから取り残されたように、孤独な自分がいる。世界とは、こういうものなのかもしれない。

*写真は、火事で燃えてしまったタメル地区の「ピルグリム・ブックストア」。カトマンズの良心であり、知のアーカイヴであり、紙に刻まれたヒマラヤ世界そのものだった。無限の世界を内包する貴重な書物が燃えてなくなるのは、本当に悲しい。