『八千米の上と下』ヘルマン・ブール 

  • 『八千米の上と下』
  • ヘルマン・ブール(著)/横川文雄(訳)
  • 朋文堂


手袋をはめようとしたが、手袋はなくなつていた。ぎよつとした僕は、あの不思議な同伴者に尋ねる。
《おい、僕の手袋を見なかつたか?》
《お前はなくしてしまつたじやないか》
 こうはつきり言うのを僕は聞いた。僕はうしろを振り返る——だが誰もいない。自分はもうどうかしてしまつたのだろうか?
 妖怪が僕を愚弄するのか? 僕はとにかく聞き慣れた声をはつきりと耳にしたのだ。誰の声だつたかな? よくわからない。

P468 うしろから3行目~

サードマン現象。こういうことはたくさんの登山家が経験している。ブールでさえも。ただ、ぼくはまだないけれど。



フィルムがなくなる。フィルムを巻き取ると、《カラット三六》の裏蓋を用心しながら開ける。というのも、僕はこの写真のもつ意義どんなに重大なものかよく識つていたからだ。さらに新しい《アグファ・カラー・フィルム》を装填する。僕は疲労の極に達していたにもかかわらず、頭はこのような操作を正確に行うことができた。さてインスブルックのクラブ仲間の頼みは果したので、チロルの小旗をとり外すと、またしまい込む。さあ、いよいよ約束通りに、パキスタンの国旗をピッケルに結びつける。素早く数枚シャッターを切る――光線の具合はもういくらか悪くなつた。僕は露出計の助けをかりなきやならない。


ヘルマン・ブールの頃は当然フィルムカメラしかなかった。しかも露出計を使っている……。登頂の証しは、頂上で写真を撮るしかない。どんなに疲れていても写真だけは撮れなければならない。ローツェの頂上で、写真を撮る。それが自分の今回の目的でもある。