『空へ』ジョン・クラカワー 

  • 『空へ』
  • ジョン・クラカワー(著)/海澤正彦(訳)
  • 文春文庫


その上に<ローツェ・フェース>が伸び上がっている。急角度で上昇する広大な氷の海は、明け方の斜めに差す光を映して、クロームメッキしたように黒ずんで鈍くきらめく。その凍てつく広がりのなか、はるかな高みから九ミリ・ロープがひと筋、延々這い降りていて、まるでジャックと豆の木のようにわたしたちを招いている。


まさに上記の通り。ローツェフェイスはそんな場所である。ただ、最近は9ミリロープが2本のびている。登攀と下降のための2本である。



 山登りなぞしたことのない人は——ということは、大多数の人は——クライミングといえば無謀なスポーツだと思うだろう。どこまでもスリルを求める衝動的なスポーツだと思うかもしれない。だが、クライマーというのは、限界を追い求める独りよがりなアドレナリン偏愛者にすぎない、と思ったら大間違いだ。少なくとも、エヴェレスト登山に関しては、そうだ。わたしが、遥かな高所でおこなったことと、バンジージャンプやスカイダイビング、時速一九〇キロで二輪車を走らせることなどと共通するものはほとんどなかった。

登山はスリルを求める衝動的なスポーツではない。登山をスポーツであると言う人はクライマーのなかにも多くいるが、ぼくは登山という行為そのものはスポーツではないと思っている。確固としたルールがあるわけではなく、しかしその一方で深い精神性に支えられている。登山は移動の延長にあるもので、むしろ旅に近いのではないか。




 五月八日、テント場に最初に着いたわたしは、氷を砕いて集める仕事を引き受けた。約三時間、仲間たちがぽつりぽつりキャンプ地に上がってきて、寝袋に収まるまでのあいだ、わたしは表に留まって、氷の斜面にアイスアックスの刃を振るい、氷片をビニールのゴミ袋員詰めて各テントに配った。七三〇〇メートルの高所で、それは疲れる作業だった。誰かチームメイトが、「ヘーイ、ジョン! まだ外にいるか? ちょっと氷が足りないんだ、こっちにもう少し頼む!」と大声を発するたびに、わたしは普段のシェルパの貢献ぶりと、わたしたちの認識不足に思いが至って、目を見開かれる気がした。


荒れた肺のなかに酸素を取り込みながら、頂陵の鋭い刃に沿って登っていくあいだ、わたしは、理屈では説明できない奇妙な静寂を楽しんでいた。ゴム・マスクの向こうに広がる世界は、途方もなく鮮明でありながら、すっかり現実感が抜け落ちているようで、まるでゴーグルのレンズに映画をスローモーションで映し出しているいるみたいだった。薬でもやったような、現実から遊離しているような、外界の刺激からまったく遮断されているような、そんな感じだった。


 エヴェレストの頂上に立ったら、それをきっかけに強烈な昂揚感が込み上げてくるはずだった。ついにわたしも、さまざまな不利な条件を克服して、子供のころから密かに狙ってきた宝物を手に入れた。だが、じつは頂上は単なる折り返し地点にすぎないのだ。自分を褒めてやりたいと思う気持ちなど、どこかに消し飛んで、行く手にはまだ長く危険な下降が横たわっているのだ、という思いにわたしは圧倒されていた。


 わたしは、ふつうの疲労困憊などはるかに超えた状態におちいって、自分が自分の体から抜け出してしまったような奇妙な感じを味わった。自分が、緑色のカーディガンを羽織り、ウィングチップの靴を履いているつもりになっていた。そして、強風のため体感温度は氷点下五十度よりはるかに下がっているはずなのに、奇妙なことに、わたしは不快なくらい暑かった。