Jazzを妄想せよ!

2011.04.07.

第10回:「Orange Was the Colour of Her Dress, Then Blue Silk 」

ワシとカカア
 
 惚れ合って一緒になった嫁であったが、年月が経つにつれ、人間は変わるものだ。いい方に変わることに超したことはないが、悪い方に変わったら、夫婦関係なんて目も当てられない。
 ワシの嫁はもう嫁なんてものじゃなく、単なる性悪なカカアと成り果てた、とワシは思っている。結婚して三十年と少し、子供がないことも原因の一つかもしれないが、ワシのカカアはとにかく、口を開けば人の悪口ばかり言っている。その悪口には当然ワシのことも含まれており、他人の悪口のネタが尽きると、ワシのことをことさら悪く言う。
「ああ、何でこんなロクデナシと結婚しちまったんだろう。稼ぎはない。要領は悪い。会社でもらう仕事も半端なものばかり。これじゃ出世は夢の夢だわね。あら、また煙草の灰を畳みに落とす。誰が掃除してると思ってるんだい!」ワシは黙っている。長年の経験から、いくら正論を説いても、いくら謝っても、このカカアは口だけは達者だ。すぐ丸め込まれてしまう。
 だが不思議と、ワシはこのカカアが嫌いではなかった。勿論好きでもなかったが。何か妙な生き物が同じ屋根の下に同居している、という全く無機質的感覚から来る、何やら不甲斐ない無関心が、多分ワシの心の真ん中に巣食ってしまったのであろう。
「お前がそうまで言うならワシは出てゆく」と啖呵を切ったことも一度もない。ただ、「ああ」だとか、「うん」だとか、否定も肯定もしない、何だか全てのことがどうでもよい以前の精神状態での返事を繰り返している。そういう状況でここ三十年ばかり、このカカアと一緒に暮らしている。
 稀につかみ合いの喧嘩をすることはあるが、不思議と相手を傷つけることはない。それはワシが最後の線で手加減しているわけでもないし、カカアの方も手加減している様子はないのだが、なぜか流血沙汰にはならない。不思議なものだ。
 
 ワシの家には離れ家がある。絶対に入るなとカカアに申し付けてある。
 離れ家と言っても、庭の端にあった物置小屋を、ワシがそれこそ二十年以上かけて改装したものだ。勿論入り口の鍵はワシしか持っていない。そしてなぜか、あのカカアが、ワシの離れ家に関しては何も言わないばかりか、近づこうともしない。畢竟、話題にも上らない。家の事に関しても、あらゆる事に悪態をつくあのカカアがである。
 改装を始めた時、何か言われるかと思っていたが、見て見ぬ振りでもない、まったくその離れ家など庭に無いような態度をとったものだから、ワシはびっくりした。
 さてその離れ家の中は、ワシの好きなジャズのレコードやCDが溢れている。特に誰々のファンだとか、ブルーノートの何番台を集めようとかいうマニアックな気持ちは毛頭無い。少ない小遣をこつこつと貯め、レコード屋などで、あれ、これ面白そうだなあ、なんて感じで買い集めたものばかりである。要するに、ワシはジャズという音楽自体が好きなのであって、特段マニアではないと思っている。そして、買ってきたレコードやCDを、自分が改装した離れ家でじっくりと聴く時が、ワシが全てを忘れられる時なのである。カカアのことも、会社のことも、隣近所のことも。浮き世に存在する全ての面倒くさいことを。
 ステレオセットも、ジャズ喫茶のような高級品とはいかぬまでも、普通の家庭にはまあ無いだろうというぐらいの設備は整えてある。幸い離れ家の回りには民家が無いので、夜中でも好きな音量でジャズが聴けるのだ。
 そう、ジャズが聴きたいだけなのだ。
 今晩はコルトレーンを聴こうとか、誰々を聴こうとか、そういった選び方はしない。プレーヤーで選ぶよりも、その演奏自体の音色で選ぶのだ。誰にも言わないことだが、ワシには音が色になって見える。それも強烈に。だから、強いて言えば、今晩はこんな色が見たいなあ、といった感じで選曲をするのである。そしてその色が、音楽と共にはっきりと見えるのが、何故だかクラシックでもなく、歌謡曲でもない。ジャズでないとワシには見えない。
 特別音楽的環境に育ったわけではないワシが、なぜこういう耳を持ったのか、いまだに不思議であるが、そのことが不思議だからこそ、ジャズにのめり込み、そしてのめり込めばのめり込むほど、いろいろな色が見えてくる。
 まあ、こんなワシは、会社の同僚との付き合いも決していい方ではない。酒は下戸だし、たまに居酒屋などに誘われても、ジャズ以外のことはとんと興味がないので、同僚の輪の中で一人ぽつねんと黙っていることが多い。次第に同僚からは誘われなくなり、上司のお眼鏡にも掛からなくなる。極端に言えば、ワシはただ生きていけるだけの金を稼ぎ、その中から捻出した僅かな金で、ジャズの色を買っているのである。こんな話を同僚にしたところで、変人扱いされるだけと承知している。否、もう既に変人扱いされているのだが。
 
 そんなある晩、家に帰ってみると、家の中が真っ暗であった。カカアの奴は、周りに人がいなくても、一人で文句をぶつくさ言っているような女である。そんなことにはもう慣れてはいたが、家が暗いのみならず、カカアの声も聞えてこない。久しぶりに「ただいま」と言って玄関を開けると、庭に出るガラス窓が開けっ放しであった。鎧戸も閉まっていない。カカアの奴は、文句ばっかり言う女だが、異常に警戒心が強く、日が暮れれば鎧戸をきっちり閉めてしまうのだが。
 何かおかしいと思いつつ居間に入ると、真っ暗な中にカカアが下を向いてかしこまっている。カカアが文句を言っていない、または何かを喋っていないという状態を、結婚後初めて見たワシは少し驚いた。最近は、以前より更に、夫婦の会話などかけらも無かったのであるが、ワシは声をかけざるを得なくなっていた。
「おい、おい、どうした? おい……」
 返事が無いと言うより、反応がないと言った方が正しい状態だった。
 カカアの肩にそっと触れてみると、そのままその場に身体が崩れた。目は開いているが、何処を見ているのかよく分からない。
「おい、おい、どうした? 何かあったのか?」
 やっとワシの顔をちらりと見たようであった。そしてちょっと口を動かした。何か言いたげである。
「なんだ? どうした、何が言いたいんだ?」耳をそっと彼女の口元に寄せてみたが、何を言っているのか分からない。
 ワシはとにかく、カカアをその場に寝かせ、毛布を被せてから鎧戸を閉め、居間の明かりをつけた。カカアは腕で目を覆う。
「眩しいのか? 調子が悪いんだったら、ほれ、布団敷いてやるから、寝なさい」
ワシは寝室に行ってカカアの布団を出し、いつもの位置に敷いてから、カカアをおぶって布団の上に寝かせてやった。
「おまえ、どうしたんだ……どこか痛いところがあるか」
 カカアはゆっくり顔を横に振る。
「じゃあ、気分が悪いのか。夕飯はどうした?」
 ワシのその声にも、カカアは顔を横に振るだけである。ワシは何だか不安になってきた。あのカカアがこんな状態になることはあり得ない。どこか痛いところが無いというのは本当だろう。痛かったら、身をよじるなり何なりする筈だ。だが気分が悪くないというのは嘘だろう。あのカカアが悪態をつきもせず、いわんや黙っているのだから。
「まあ、そこに寝とれ。今体温計持ってきてやる」
 熱は無かった。ワシには何が起きたのかさっぱり分からなかったが、カカアがうつらうつらし始めたので、台所へ行ってみた。そこには夕食の支度はされておらず、飯びつの蓋が床にころがっていた。ワシは飯びつの中に残っていた冷や飯で茶漬けを食い、カカアの様子を見に行った。カカアの奴は、相変わらずうとうとしている。今晩は、いくらこんなカカアであっても、放っておくわけにはいくまい。ワシは、楽しみにしていた離れ家に行ってジャズを聴くことを諦め、カカアの横に布団を敷いて横になった。こんな夜、医者だって起きてはいまい。脳溢血の症状でもなさそうだ、といろいろと考えていたら、ワシも気づかぬうちに眠っていた。
 
 次の日の朝、ワシが目を覚ますと、カカアは上体だけ起き上がらせて、庭の木陰をぼうっと見つめている。
 今までの朝の喧噪から、少なくとも今朝だけは静かにしていられると思いつつ、カカアの顔を覗き込む。人の悪口を言う時に、醜く歪んでいたその下唇が、わなわなと震えている。
「おい、朝だぞ。おい。どうした……まだ元気が出ないのか」
 答えは無い。仕様がないので、ワシはその日は欠勤とし、カカアの腕を引っぱって、近くのかかりつけの医者に連れて行った。
 
 医者は、性悪カカアに何を言われるのかとびくついた顔で我々を診察室に迎え入れたが、カカアを見るや否や、その顔は真剣となった。血圧、体温、その他全て正常。これ以上は大きな病院に行って精密検査を受けなければ、カカアがなぜ豹変したか分からぬとその医者は言う。
「まあ、私は専門ではありませんがね、つまり、奥様が、何と言いますか、非常に活気があるお方だったでしょう。それが一晩のうちに静かになってしまった。まあ、こういうことは言いたくはないですがね、精神科の診療もお勧めしておきますよ」
 何を言っていやがる、とワシは思った。あの口汚くて、全てのことに対して文句ばっかり言っていたカカアは元々初めから精神を病んでいたんじゃないのか。とは言え、いくら諦めの外にその存在自体を置いてしまったカカアでも、放っておくわけにはいかなかった。
 後日、ワシはまた会社を欠勤し、大学病院の精神科にカカアを連れて行った。
 
「御主人、奥様は突発的にうつ病を発症されたとしか考えられませんな。その、御主人がおっしゃるように、結婚してからこの方、陽気な方だったわけですよね。それがたった一日で何も喋らなくなった。何か奥様に親族など、突発的なご不幸があったとか」
 ワシは笑いを堪えるのがやっとだった。このカカアは親、兄弟、親戚、友人全てから、その己が性格によって絶縁状態であった。近所の人々も怖がって近寄らない。ワシにも全然見当がつかなかった。
「まあ、お薬を出しておきましょう。週一回の診察で、経過を見ましょう。うつ病の方は食欲が無くなるので、少しでもいいですから、御主人が何か食べさせてあげて下さい。また、経過によっては、認知症の疑いも出てくる可能性があります」
 
 こうなってくると、ワシもカカアのことを本格的に面倒を見なければならなくなった。医者が言うには、うつ病患者には、希死念虜というものがあり、突発的に死にたくなるという。認知症となれば、また別のことで面倒を見なければならなくなる。会社に訳を話し、長期休暇をもらって、ワシはこの性悪カカアの面倒を見ざるを得ない状況になってしまった。
 
 ワシにもほとんど友人というものはおらず、カカアに至ってはお話の外なので、自然と、小さい家で二人だけの生活が始まった。
 会社なんて、飯を食うためと、中古のジャズのCDやレコードを買う金が必要だから働いていただけで、その職に対し、ワシは何にも興味を持っていなかったから、意外に毎日のんびりと過ごすことができた。しかも、カカアの罵詈雑言も聞えない。
 ただ、ワシがカカアのそばに付いていなければならず、離れ家に一人で行くことができないのが少し寂しかった。まあええわい、と自分を納得させ、三度の飯を、料理本を見ながら見よう見まねで調理して、カカアの口の中に押し込む。カカアのあの独特な毒づきも消え、そしてまたジャズの音も、そこから見える色さえも耳から遠のき、ワシは耳の奥が真っ白になってしまったような気がしてならなかった。
 
 そんなこんなで一年経ってしまった。会社はもうクビになっている。ワシは不思議とショックは受けなかった。この静かな毎日がとても貴重に思われたからだ。そして、ワシの意識の範疇の外にいたあのカカアが、最近、少し喋り始めてきたことも、ワシの気分を軽くしていた。
 そんなある日の夜、ささやかな料理とともにワシがカカアと晩飯を喰っていたら、カカアが何か一言つぶやいた。
「なんだ、どうした……今なんて言った?」
 はっきりは分からないが、同じことを何回も繰り返して言っているようである。
「ワシには聞えん。ちょっとまっとれ」
 ワシはカカアに顔を寄せて、もういっぺん言ってみい、という目つきで覗き込んだ。
「あの離れ、あの離れ、離れ家、あなたの……離れ」
 ワシは確かにカカアがワシの離れ家のことを言っているのだと咄嗟に判断した。
「なんだ、あの離れ家がどうした……お前には関係なかろう」
「離れ、離れ家」
「なんじゃ、離れ家がどうしたんだ」
「離れ、離れ、な〜に? なーに?」
 カカアの言っていることをやっと理解したワシは、当然ドキリとした。カカアが性悪だった時も、その後、自らを閉ざしてしまった後も、カカアは一度としてワシの離れ家のことには触れなかったからだ。
「どうした、お前……離れ家って、あの庭の隅のあれのことか」
「離れ……なーに?……離れ」
「ああ、何にしても、やっと意味の通じる言葉が出たな。しかし何だな。その初めの言葉がワシのあの離れ家のことを言うとは思いもよらなかった。さあ、離れ家が何だ? 中を見たいのか?」
「なーに? なーに?」
「よしよし分かった。今離れ家に連れて行ってやろう。お前はあの中をまだ見たことが無かったんだよな」
 夕食もそこそこに、ワシとカカアは狭い庭に出て、薄暗い足下に気をつけながら、離れ家にたどり着いた。
「今鍵を開けるから、待っとれ」
 久しぶりに離れ家の中に入ってみると、埃と饐えたような匂いが鼻を突いた。ワシ以外、ここに入る者はいなかったので、全ては前のままであった。古道具屋で買ったランプに明かりを灯し、無意識にステレオセットのスイッチをオンにした。
 ワシはカカアを、特等席であるボロいカウチに座らせた。
「なあ、おい、お前、この離れ家の中に入ったのは初めてだろ。ワシがここで何をしていたのか、気にならなかったのか?」
 ワシの思った通り、カカアはぼんやり辺りを見回すだけで、何の反応も示さない。
「おい、ワシはなあ、ここでいつも一人でジャズを聴いていたんだよ。お前にジャズなんて言っても、馬の耳に念仏だろうが」
 山積みとなっているCDの埃を払いながらワシがもう一度声をかけると、カカアがぼそりとつぶやいた。
「ジャズ……アタシ……聴いてた。離れ……なーに? なーに? 壁の外で……音が聴こえた……」
 なぜだか、ワシは急にこみ上げてきた嗚咽に耐えられなくなり、気がついたら、泣きながらカカアを抱きしめていた。
「お前、知ってたのか。ワシの秘密……。なぜ言わなかった、このワシに。なぜあんなもん下らないとか、うるさいとか、お前らしく毒づかなかったんだ?」
 カカアはまた無言となり、再度辺りをぼんやりと見回している。とにかくワシは、手近にあったCDを手に取るや、プレーヤーの中に押し込んだ。
「カカア、もう外で寂しく聞耳立てんでも、今晩はゆっくり聴かしてやるから。待っちょれ」
 ワシはプレーヤーのスタートボタンを押した。チャーリー・ミンガスのベースソロの音が、その狭い離れ家に充満した。「The Great Concert of Charlie Mingus」だ。ワシのお気に入りの一枚である。カカアはしばらくの間、惚けたような顔をしつつ、ミンガスのベースソロを聴いていたが、突然はっきりとした口調で言った。
「真っ黒な色の中に……透明なシャボン玉がいっぱい」
 ワシはこの時ほど度肝を抜かれたことは無かった。ガサツで、文句ばかり言っていたカカアの感性にも、こんな部分があったのか。ワシと同じく、音楽を色で捉える感性が存在していたのか。
「お前にも見えるのか」
「あたし、寂しかった……心が閉じる前、あなたの後を追ってこの離れ屋へ……素敵な音楽……色が見えた。今の演奏は誰?」
「サックスのクリフォード・ジョーダンさ」
「シルクのような、真っ青な空のよう。何のメロディー?」
「ああ、お前の言う通りさ。この曲のタイトルは『Orange Was The Colour of Her Dress, Then Blue Silk』。ワシは英語に疎いんじゃが、何やらベースのミンガスの恋人か誰かが、青いシルクのドレスを着ているといったような意味じゃないかな。とにかく、ワシも同じ色を毎回見ておるよ」
「青色シルク、青色、青色……」
 カカアの独り言を聞きながらワシは思った。カカアの奴、偶然かけたミンガスのCDを聴いた瞬間から、語彙が増えたような気がする。それではこれはどうだ。
「カカア、今度かける音楽はなあ、マイルス・デイヴィスという人のトランペットだがな。どんな色が見えるか教えてくれるか」
 ワシはカカアにこう問いつつマイルスの「My Funny Valentine」を聴かせてみた。カカアはじっと聞いていたが、「何だか、透明なブルーに混じる黒色。でもさっきの人の黒色の方が好きだわ」と言った。
 ミンガスのことかと思い、ワシはまた最初にかけたCDをターンテーブルに置いた。
「そうそう、この黒色と、宇宙にまで届くような透明感、これが好き」
 ワシはカカアがいつから詩人のような表現ができるようになったのか、少し怪訝に思ったが、カカアの顔に表情が蘇りつつあったので、まあええわい、と思い、一晩中、色々なジャズのCDをカカアに聴かせまくったのであった。
 
 それからというもの、ワシとカカアは、件の離れ家で、毎晩ワシのコレクションの中からランダムにCDをかけて過ごした。
 だが、そんなことをずっと続けているような経済的余裕もなかった。カカアの病状にも変化はない。そこでワシは、なけなしの貯金をはたいて、駅のそばに小さな喫茶店を営業することを考えた。喫茶店であれば、カカアをカウンターの端に座らせておけば、何かと心配材料も減るのではと思ったからだ。
 だが、水商売などそもそも関わったことすらないし、だいたい、自分の性格が接客業に向いているとも思えない。ええい、そんなことをがたがた言っている暇などワシにはないのだ。そうだ。とにかく良い音楽だけは、そこら辺のチェーンのコーヒー屋より提供できるのではないか。数えきれないほどの枚数のCDがある。ここで大切なのは、ワシの喫茶店を、あえて「ジャズ喫茶」と称さないことが大切だろうと判断した。ごく稀に立ち寄ったことのある、いわゆるジャズ喫茶には、あまり人の出入りがなかったからだ。
 
 そんなこんなで近くの駅前の物件を探しに行ったら、あった、あった。ワシの人生も捨てたもんじゃないと思った。今まで運が良いなんて一回も思ったことなどなかったが、空き倉庫のような場所が一件貸し出されていた。簡単な台所のような設備もあり、家賃も安かったので、すぐに手付金を打ち、喫茶店を開く準備に取りかかった。
 開店はそれから六ヶ月以上後のことだった。役所に営業許可を取るのに手間取ったからだ。出来上がったワシの喫茶店は、内装も何もあったもんじゃないむき出しの壁に、簡単なカウンターだけの簡素な作りで、作れるものといったら、コーヒーや紅茶、ココアの類とピザトーストだけである。
 だが、皆を心地よくする音楽はふんだんにある。なにしろ、数えきれないほどのCDの中の音楽の色を、ワシは全部憶えているのだから。店の名前は考えるのも面倒くさかったので、「喫茶・WAS SHE?」とした。ただいつもワシは自分のことをワシと呼んでいたからという、他愛もない理由からである。
 店は開店し、ワシはいの一番に大好きなジャズのCDを店内に流して過ごすようになった。昼から好きなジャズが聴けるなんて、それだけでもワシにとっては極楽であった。
 
 思いの外、すぐ常連客ができた。コーヒーが美味い店として、また、変わったばあさんが面白くて変なことを言うという、噂自体も妙なものだったが、いずれにせよ偏屈なワシでも、客が来ないより来た方が嬉しかった。
 なぜコーヒーが美味いと言われるのか、最初は不思議に感じていたが、考えてみれば、毎晩離れ家でジャズを聴いているとき、これも密かに購入したコーヒーミルでコーヒーを飲んでいたのである。あれだけの年月、毎晩コーヒーを煎れていたのだから、ワシのような朴念仁でも、コーヒーを美味く煎れる、あるポイントを自然に会得していたのかもしれない。
 また、カウンターの窓際に座り、ただニヤニヤしているだけのカカアが、突然、「あっ!水色の音!」だの、「真っ黒だけど透明で重い色!」などと言いだすものだから、客達は何事かと周りを見回す。ワシが、いやコイツにはね、音楽が色になって見えるんですよ、などと説明すると、客達は変な冗談としてワシの言葉を受け止め、かかっているジャズにも興味を示さず、新聞を読んだり、ぼんやりし始める。
 しばらくすると、常連に加え、中高年の一癖ありそうなオヤジ達もワシの店を根城にし始めた。いわゆる団塊の世代と呼ばれる連中だ。定年退職したが、第二の人生なんてアホらしいとどこかで思っていて、一日中家の中にいると粗大ゴミ扱いを受けているような、そんな連中である。彼らには学生時代にジャズを聴いたという青春の通過点がある。
 おっ、良い音楽がかかっているねえ、なんていう客も珍しくもなく、ご近所さん同士の同年輩が、ジャズ談義に花を咲かせることもある。そんなことも幸いし、ワシの店は繁盛したのである。
「おい、マスター、これミンガスじゃないの」
「はいはい、そうですよ。例の二枚組のライブ盤」
「ザ、グレートコンサートオブ、チャールズ・ミンガスだろ。学生時代、よくジャズ喫茶で聴いたもんさ」
「お客さん、よくご存知で……」
「昔はジャズ喫茶に入り浸ったもんだが、ここは音量がジャズ喫茶みたいにうるさくないし、ほら、そこの奥さんが突然面白いこと言うからさ。家にいるより落ちつくんだよな」
「シルクの青色! 透明だけど哀しくて、でも青色!」
「な、ほら始まった。奥さんまるで、音が色になって見えているようだな」
「奥さんなんてそんな言い方はやめて下さい。カカアですよ。ワシはあれを何十年とカカアと呼んできたんです。だからお客さんもカカアと呼んで下さい」
「え、いいの?」
「はい、はい。カカアで結構です」
「あっそう。おーい、そこのカカアさん、今何色が見えるんだ?」
「今の……演奏は……ドルフィーだから、涙が出るような暖色、でも狂ったような灰色がかっている色をしている時もある!」
 ワシは思った。あのカカアに狂ったような色と言われるドルフィーも気の毒だな。


「The great Concert Of Charles Mingus」
(Verve)
チャールズ・ミンガス


「Orange Was The Colour of Her dress, Then Blue Silk 」
才能豊かな作曲家が金持ちのパトロン女性のために、彼女をイメージした曲を作った。彼女の着ているドレスがオレンジ色だった――というストーリー設定から生まれたチャールズ・ミンガスの曲「Song with Orange」。その曲のイメージをミンガス自身が更に広げ生み出したのが同曲。1964年、ミンガスのクインテッドがヨーロッパツアー中パリで演奏したものが特に評価が高い。
また、南さんと菊地成孔氏によるバージョンが、アルバム「花と水」に収録されている。


チャールズ・ミンガス(1922-1979)
ジャズ・ベーシストであり、作曲家、バンドリーダー。チャーリー・パーカーやバド・パウウェルのバンドでベーシストとしての名を上げ、1956年にアルバム「直立猿人」でベーシストだけでなく、バンドリーダーとしても名声を得る。コード進行に乗せたアドリブを展開するビバップをよりメロディアスに洗練させたハード・バップを軸に、さまざまなスタイルの演奏をこなす。デューク・エリントンを敬愛し、「デュークの継承者」と呼ばれた。人種隔離反対の姿勢でも有名。有能であれば白人でも進んで自分のバンドに迎え入れた。

プロフィール

南 博

1960年東京生まれ。東京音楽大学、バークリー音楽大学卒業。綾戸智絵トリオを経て、南博Trio、南博GO THERE!などリーダーバンド多数。菊地成孔との共演でも知られる。著書に『白鍵と黒鍵の間に』『鍵盤上のUSA』(どちらも小学館)。文芸誌「en- taxi」他で連載中。WEBSITE

ひとこと・ふたこと

ピアノの生徒募集中、詳しくはWEBまで。

3月15日(火)に新宿Pit InnでGO THERE!、3月17日(木)にラフォーレミュージアム原宿でLAFORET SOUND MUSEUM(花と水)、3月18日(金)に吉祥寺SOMETIMEで南博トリオのライブを行います。