子どもの頃、さほど「空想好き」とは言えなかったのですが、想像するのはやたら好きでした。「猿人から人類になるまでの進化」のあの図がとにかく好きで、「サルから人間?」「いつから人間で、どこまでサルなの?」――僕は、そんな疑問をずっと抱えたまま解決しようとせず、ただあれこれ想像して今まで過ごしてしまったような気もます。まあ、反省するほど、何がどうということでもないのですが、小学校の頃から「メガネザル」と呼ばれていたし、とにかくサルというものに、なぜかふか~く興味を抱いていたのは確か。
小さな頃から、僕の中で一つの仮説があります。
遠い昔、サルはとうとう地面から手を離し、うれしくてうれしくて、そしてびっくりして遠くを眺めた。今までが地面から50センチくらいの低い風景ばかりだったとしたら、その立ち上がった時に見えたものは遠くまで続く、それはそれは美しい風景で、サルは感動して思わずその風景にしばし見入ってしまった。
さらに続きます。
あまりの感動に、そのサルは右にも左にも、前にも後ろにも進めず、ただただ立ち尽くし、そして思わずココロの中で叫んだ。「クウキガウマイ、イキルコトハ、スバラシイ!」
子どもの頃は、あの進化の図を見ながら、そんなことを無駄によく想像してました。
さて、「立つ」って何なのでしょう。今の世の中では、ただただ立っていることは案外とつらいです。駅のホームを見ても、人々は椅子や地べたに座り込んでいます。現代人は座ることに慣れてしまっているけれど、遠い昔の人々は気持ちよく立っていたのかな、と思います。特に日本人は、廊下で立たされることが罰になるくらい「ただ立っている」というのが苦手な国民のようにも思えます。僕も苦手です。
知る限り、立っているのが得意なのはインド人。20代の頃フランスに行った時、インド人のグループと宿を共にした際に、その中の一人の青年がカレーを作ってくれました。朝7時頃、僕がキッチンに朝ご飯を食べに行くと、彼が静かに現れ、まずタマネギを炒めはじめました。それから香料を足し手を休めると、彼はまったく慌てることなく、また座ることもなく、時々窓から気持ちよさげに外を眺めてはまた炒め続け……をゆったりと繰り返していました。
僕が12時も過ぎて再びキッチンに行くと、その彼はまだ立ったままカレーをのんびりと作っていました。「即席3分クッキング」なんていう概念は、彼には全くなかったのです。ただ楽しいから、ゆっくりと味わいながら調理をしていたら、時間が経っていたのです。それも5時間以上立ったまま。
彼のことを考えると、小学校の頃の「廊下に立ってろ!」というのは間違っているような気がしてしまいます。彼にとって立つことは苦ではなく、喜びなのです。そしてもしかしたら、彼だけでなく、すべての人間にとっても。初めて立った時のサルの感動は、そう簡単に遺伝子の記憶から消せるものではないはずですから。
もう一つ余計な仮説です。
とてつもなく美しく立ちあがったサルは、やがて前方に少しからだが傾き、思わず「一歩」踏み出してしまった――。
それがそう、「歩行」の始まりです。とうとうサルは歩き出してしまったのです。