第20回:日常の中の裸について

2011年05月20日

 人間は、毛の量が極めて少ない動物であります。当たり前のことですが、時々「そういえば肌がつるつるだなあ」などと今さらながらびっくりしたりします。裸を時々「産まれたままの姿」と言ったりしますが、どうも我々人間は、裸にそれ以上の意味、妄想を抱き過ぎな感じもします。
 かつて裸が身近だった頃は、誰も何とも思わなかったはずなのです。僕も人生の中で幾度となく「裸」という状態に考えさせられたことがあります。
 大学の頃、絵のモデルをやっていました。いわゆる裸体のモデルです。20分間じっとするようなポーズもあれば、3分間スローに動き続けるなんていうのもありました。もちろんずっと裸です。これは仕事として割り切っている気持ち半分、冒険する面白さ半分という状態でした。
 先生から掛けられる「こんどうさん、休憩です」の言葉は、タオルを羽織り、陰部を隠すことを意味します。「こんどうさん、お願いします」は、バサっとタオルをはずして立ち上がること、つまり「よし裸ですよ! 描いてください」を意味します。
 こんな体験を5年間くらい続けました。今から思うと、現代人には珍しい「裸のある生活」だった気がします。
 さらに、ヨーロッパに一人旅に行っている頃、スペイン、ポルトガルではヌーディストビーチなるものに出会いました。初めて訪れた時は、興味があるというよりショックな思いでした。というのも、先ほどまでお店でコーヒーを一緒に飲んでいたドイツ人(それも金髪だと記憶している)が、そのビーチでは裸体で跳ねたりしているのです。
 ヌーディストビーチは、まさしく裸体の楽園です。それこそ産まれたままの姿で、思い思いに時間を楽しんでいるのです。ヌーディストビーチは浜辺の奥まったところにあって、公道からは見えないのですが、浜辺にいる人たちからは、角度によっては丸見えなのです。
 そこで、ひとつの疑問が湧き出ました。そんな状況での裸体は、どこに裸体を許す/許さないの境界線があるのだろうか。
 日本の温泉地に見られる裸の境界線は、脱衣所であります。脱衣所の手前までは浴衣、その向こうから裸が許されます。ヌーディストビーチと普通の浜辺との意識的な境界線はどこなのでしょうか。
 僕の裸体の記憶はさらに続きます。10年前に南米のチリに行った時のことです。コンドルズの面々と朝方貸し切りバスに乗っていました。僕は窓から町をぼーっと眺めていました。すると裸の男がジョギングしているのです。男はよく見ると髭を生やし、ヘッドフォンと運動靴は着用していました。僕が目撃したのは、彼が信号待ちしている瞬間でした。つまり、町中でのジョギングでした。男は信号を待つ間もしっかりその場をジョギングしていました。
 そこの信号には、もちろん通常の服を着た人も立っていました。バスは僕の疑問を無視するかのように無情にも走りぬけてしまったので、裸と日常とジョギング、この組み合わせは未だに謎のままです。
 日本でも昔からストリーキングという言葉がありますが、これは初めから変質者という確信があるのでなぜかうなずけるのですが、変質者ではない人の裸での町中ジョギングはうなずけませんし不思議と変質者の場合よりも恐ろしいのです。本人に「裸である」という自覚が、もう既にないのかもしれないと思い浮かべてみた瞬間、何かしらの既成概念の崩壊、人間の根本をゆるがすものを感じてしまうのです。
 肌がつるつるの人間界において日常の中の裸体は、深い意味があるようです。もう少しその辺りを私たちは考えていくべきなのでしょう。

プロフィール

近藤良平

東京生まれ、ペルー、チリ、アルゼンチン育ち。振付家・ダンサー。男性のみ学ラン姿でダンス・映像・コントなどを展開する舞台で人気のダンスカンパニー「コンドルズ」主宰。
アジア、中南米をはじめ数多くの海外公演もこなす。第四回朝日舞台芸術賞・寺山修司賞を受賞。テレビやミュージシャンのPVなどで振付家として活躍する一方、横浜国立大学、立教大学などで非常勤講師としてダンスの指導もしている。また、NODA・MAP公演『THE BEE』で役者としてデビュー。バンド「THE CONDORS」ではベースを担当。

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