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	<title>リトルモア広場 &#187; ひみつのからだ、からだのひみつ</title>
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		<title>第20回：日常の中の裸について</title>
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		<pubDate>Thu, 19 May 2011 15:00:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>lmhiroba</dc:creator>
				<category><![CDATA[ひみつのからだ、からだのひみつ]]></category>

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		<description><![CDATA[　人間は、毛の量が極めて少ない動物であります。当たり前のことですが、時々「そういえば肌がつるつるだなあ」などと今さらながらびっくりしたりします。裸を時々「産まれたままの姿」と言ったりしますが、どうも我々人間は、裸にそれ以上の意味、妄想を抱き過ぎな感じもします。 　かつて裸が身近だった頃は、誰も何とも思わなかったはずなのです。僕も人生の中で幾度となく「裸」という状態に考えさせられたことがあります。 　大学の頃、絵のモデルをやっていました。いわゆる裸体のモデルです。20分間じっとするようなポーズもあれば、3分間スローに動き続けるなんていうのもありました。もちろんずっと裸です。これは仕事として割り切っている気持ち半分、冒険する面白さ半分という状態でした。 　先生から掛けられる「こんどうさん、休憩です」の言葉は、タオルを羽織り、陰部を隠すことを意味します。「こんどうさん、お願いします」は、バサっとタオルをはずして立ち上がること、つまり「よし裸ですよ！　描いてください」を意味します。 　こんな体験を5年間くらい続けました。今から思うと、現代人には珍しい「裸のある生活」だった気がします。 　さらに、ヨーロッパに一人旅に行っている頃、スペイン、ポルトガルではヌーディストビーチなるものに出会いました。初めて訪れた時は、興味があるというよりショックな思いでした。というのも、先ほどまでお店でコーヒーを一緒に飲んでいたドイツ人（それも金髪だと記憶している）が、そのビーチでは裸体で跳ねたりしているのです。 　ヌーディストビーチは、まさしく裸体の楽園です。それこそ産まれたままの姿で、思い思いに時間を楽しんでいるのです。ヌーディストビーチは浜辺の奥まったところにあって、公道からは見えないのですが、浜辺にいる人たちからは、角度によっては丸見えなのです。 　そこで、ひとつの疑問が湧き出ました。そんな状況での裸体は、どこに裸体を許す／許さないの境界線があるのだろうか。 　日本の温泉地に見られる裸の境界線は、脱衣所であります。脱衣所の手前までは浴衣、その向こうから裸が許されます。ヌーディストビーチと普通の浜辺との意識的な境界線はどこなのでしょうか。 　僕の裸体の記憶はさらに続きます。10年前に南米のチリに行った時のことです。コンドルズの面々と朝方貸し切りバスに乗っていました。僕は窓から町をぼーっと眺めていました。すると裸の男がジョギングしているのです。男はよく見ると髭を生やし、ヘッドフォンと運動靴は着用していました。僕が目撃したのは、彼が信号待ちしている瞬間でした。つまり、町中でのジョギングでした。男は信号を待つ間もしっかりその場をジョギングしていました。 　そこの信号には、もちろん通常の服を着た人も立っていました。バスは僕の疑問を無視するかのように無情にも走りぬけてしまったので、裸と日常とジョギング、この組み合わせは未だに謎のままです。 　日本でも昔からストリーキングという言葉がありますが、これは初めから変質者という確信があるのでなぜかうなずけるのですが、変質者ではない人の裸での町中ジョギングはうなずけませんし不思議と変質者の場合よりも恐ろしいのです。本人に「裸である」という自覚が、もう既にないのかもしれないと思い浮かべてみた瞬間、何かしらの既成概念の崩壊、人間の根本をゆるがすものを感じてしまうのです。 　肌がつるつるの人間界において日常の中の裸体は、深い意味があるようです。もう少しその辺りを私たちは考えていくべきなのでしょう。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　人間は、毛の量が極めて少ない動物であります。当たり前のことですが、時々「そういえば肌がつるつるだなあ」などと今さらながらびっくりしたりします。裸を時々「産まれたままの姿」と言ったりしますが、どうも我々人間は、裸にそれ以上の意味、妄想を抱き過ぎな感じもします。<br />
　かつて裸が身近だった頃は、誰も何とも思わなかったはずなのです。僕も人生の中で幾度となく「裸」という状態に考えさせられたことがあります。<br />
　大学の頃、絵のモデルをやっていました。いわゆる裸体のモデルです。20分間じっとするようなポーズもあれば、3分間スローに動き続けるなんていうのもありました。もちろんずっと裸です。これは仕事として割り切っている気持ち半分、冒険する面白さ半分という状態でした。<br />
　先生から掛けられる「こんどうさん、休憩です」の言葉は、タオルを羽織り、陰部を隠すことを意味します。「こんどうさん、お願いします」は、バサっとタオルをはずして立ち上がること、つまり「よし裸ですよ！　描いてください」を意味します。<br />
　こんな体験を5年間くらい続けました。今から思うと、現代人には珍しい「裸のある生活」だった気がします。<br />
　さらに、ヨーロッパに一人旅に行っている頃、スペイン、ポルトガルではヌーディストビーチなるものに出会いました。初めて訪れた時は、興味があるというよりショックな思いでした。というのも、先ほどまでお店でコーヒーを一緒に飲んでいたドイツ人（それも金髪だと記憶している）が、そのビーチでは裸体で跳ねたりしているのです。<br />
　ヌーディストビーチは、まさしく裸体の楽園です。それこそ産まれたままの姿で、思い思いに時間を楽しんでいるのです。ヌーディストビーチは浜辺の奥まったところにあって、公道からは見えないのですが、浜辺にいる人たちからは、角度によっては丸見えなのです。<br />
　そこで、ひとつの疑問が湧き出ました。そんな状況での裸体は、どこに裸体を許す／許さないの境界線があるのだろうか。<br />
　日本の温泉地に見られる裸の境界線は、脱衣所であります。脱衣所の手前までは浴衣、その向こうから裸が許されます。ヌーディストビーチと普通の浜辺との意識的な境界線はどこなのでしょうか。<br />
　僕の裸体の記憶はさらに続きます。10年前に南米のチリに行った時のことです。コンドルズの面々と朝方貸し切りバスに乗っていました。僕は窓から町をぼーっと眺めていました。すると裸の男がジョギングしているのです。男はよく見ると髭を生やし、ヘッドフォンと運動靴は着用していました。僕が目撃したのは、彼が信号待ちしている瞬間でした。つまり、町中でのジョギングでした。男は信号を待つ間もしっかりその場をジョギングしていました。<br />
　そこの信号には、もちろん通常の服を着た人も立っていました。バスは僕の疑問を無視するかのように無情にも走りぬけてしまったので、裸と日常とジョギング、この組み合わせは未だに謎のままです。<br />
　日本でも昔からストリーキングという言葉がありますが、これは初めから変質者という確信があるのでなぜかうなずけるのですが、変質者ではない人の裸での町中ジョギングはうなずけませんし不思議と変質者の場合よりも恐ろしいのです。本人に「裸である」という自覚が、もう既にないのかもしれないと思い浮かべてみた瞬間、何かしらの既成概念の崩壊、人間の根本をゆるがすものを感じてしまうのです。<br />
　肌がつるつるの人間界において日常の中の裸体は、深い意味があるようです。もう少しその辺りを私たちは考えていくべきなのでしょう。</p>
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		<title>第19回：記憶について</title>
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		<pubDate>Sat, 30 Apr 2011 15:00:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>lmhiroba</dc:creator>
				<category><![CDATA[ひみつのからだ、からだのひみつ]]></category>

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		<description><![CDATA[　時々人間として情けなく思えるくらい物忘れします。まあ多かれ少なかれ皆同じような経験をすると思いますが、どうでしょう。「大事なことだから覚えておこう」なんて思っても忘れてしまうものです。そう、カギを開けるための暗証番号でさえ忘れてしまうのです。 　僕は家族に3つ上のお姉さんがいますが、僕の姉は、記憶力が半端なく良かったのを覚えています。自分が小学生の頃、姉ちゃんと喧嘩しても「あの時あんたがこう言ったのよ！」と言われ、結局自分では全く記憶にないため姉に全敗していました。 　ちょっとした行いの差が大きな記憶の差を生むことも姉との比較で知りました。 姉は黒板の字をノートに書き写すのが上手で（日本語の字もきれい）、それも書き方に浮き沈みがありません。それに比べ、僕はノートに書いても自分で読めないくらい汚いし、字も間違えたまま。それは差が出ますよね。 　僕の姉は、結果、語学能力が非常に高く、今や英語、スペイン語は会話以上に使えて、それ以外にも、フランス語、イタリア語、ドイツ語もそれなりに使えます。僕はというと、日本語も含めて未だにギリギリである確信があります。 　 　書き写して覚える、というのはからだに記憶させているとも言えます。 　からだの記憶といえば、僕の専門である振付はその最たる例かもしれません。振付を覚えるのは、一般の人には非常に難しいことかもしれませんが、僕には言葉を覚えるより簡単な作業です。一般の人は動きを言葉に置き換えて覚えてしまいがちですが、踊り慣れている人の場合、動きを動きとしてからだで覚えるからです。 　また不思議なことに、例えば15分間の振付の内容でも、頭の中で回路が繋がれば1分間で復習できます。意味がよくわからないと思いますが、記憶の時間は圧縮（or 短縮）できるのです。 　少し種を明かすと、動きの連なりを記憶するにはそれなりのコツみたいなものがいると思います。年号を覚えるのと同じで、「イイクニツクローカマクラバクフ」のように、「クルットシテフワフワタッター」などと唱えると大まかな振りは覚えられます。さらに、細かな動きは覚えづらいのですが、少しデフォルメして人に教えるかのように自分のからだに伝えると、いつの間にかからだが動きを記憶します。 　とはいえ、振付の中にはどうやっても覚えにくいものがあります。動きにひとつの流れがあるものは、動きの軌道が線のように見えるので覚えやすいのですが、逆に、流れをあえて「裏切る」ものは覚えづらいです。 　ダンス（即興以外の）は振付を記憶しないと踊れませんが、普段、日常で行う動きも、記憶の賜物です。記憶していなければ、たぶん靴さえも履けないでしょう。 　 　さて、記憶を辿ると……などとよく言いますが、どうでしょう。昔の記憶ってどこかしらあいまいさがあるが故に美化されたり都合の良いように変えられてしまったり、それも含めて、人間の持つ能力みたいで、僕はそんな記憶の曖昧さに大賛成なのです。今の携帯やデジタルカメラのように、必要以上にデータが残ってしまうのはなにか人間の持つ曖昧さに釘を刺しているようで、どうも好きになれません。 　記憶の単位は、どんなものが良いのでしょう。3年前は「ひと昔前」なのでしょうか。それとも「ついこの前」なのでしょうか。また、すぐに薄れていく記憶もあるけれど、何年たっても錆びていかないものもあります。 　記憶とはそれぞれの都合のよい解釈な気もします。人間、長く生きていけば記憶の山でパニックになりそうですが、結果そうではありません。都合の良い記憶に基づいて次なる行動に向かっているからだと思います。 　上手に言えないのですが、いろんな場所で、いろんな時間で、我々は記憶を辿ろうとします。海を見に行ったり、墓参りに行ったり、馴染みの場所に行ったりするのは、以前そこで出会った風景、人、思い出にまた出会いたいからです。 　先日、広島の平和記念公園を歩きました。小春日和な天気で、静かに原爆ドームが佇んでおりました。ふと足を止め、原爆ドームを見入る人がたくさんいました。そんな風景を眺めていると、人それぞれの思いみたいなものが交錯しているように見えます。思いは、みなさんそれぞれの記憶なのです。 　我々は、磨りガラスのようにだんだん曇っていく記憶を時々磨いて、輝きを取り戻したくなるのかもしれません。それは決して合理的なことではないだろうし、無駄骨で終わることもあるでしょうが、それでも人は、生きている限り、繰り返し記憶を磨き続けます。それは体力のいることです。だから、記憶のためにはからだも大事なのです。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　時々人間として情けなく思えるくらい物忘れします。まあ多かれ少なかれ皆同じような経験をすると思いますが、どうでしょう。「大事なことだから覚えておこう」なんて思っても忘れてしまうものです。そう、カギを開けるための暗証番号でさえ忘れてしまうのです。<br />
　僕は家族に3つ上のお姉さんがいますが、僕の姉は、記憶力が半端なく良かったのを覚えています。自分が小学生の頃、姉ちゃんと喧嘩しても「あの時あんたがこう言ったのよ！」と言われ、結局自分では全く記憶にないため姉に全敗していました。<br />
　ちょっとした行いの差が大きな記憶の差を生むことも姉との比較で知りました。<br />
姉は黒板の字をノートに書き写すのが上手で（日本語の字もきれい）、それも書き方に浮き沈みがありません。それに比べ、僕はノートに書いても自分で読めないくらい汚いし、字も間違えたまま。それは差が出ますよね。<br />
　僕の姉は、結果、語学能力が非常に高く、今や英語、スペイン語は会話以上に使えて、それ以外にも、フランス語、イタリア語、ドイツ語もそれなりに使えます。僕はというと、日本語も含めて未だにギリギリである確信があります。<br />
　<br />
　書き写して覚える、というのはからだに記憶させているとも言えます。<br />
　からだの記憶といえば、僕の専門である振付はその最たる例かもしれません。振付を覚えるのは、一般の人には非常に難しいことかもしれませんが、僕には言葉を覚えるより簡単な作業です。一般の人は動きを言葉に置き換えて覚えてしまいがちですが、踊り慣れている人の場合、動きを動きとしてからだで覚えるからです。<br />
　また不思議なことに、例えば15分間の振付の内容でも、頭の中で回路が繋がれば1分間で復習できます。意味がよくわからないと思いますが、記憶の時間は圧縮（or 短縮）できるのです。<br />
　少し種を明かすと、動きの連なりを記憶するにはそれなりのコツみたいなものがいると思います。年号を覚えるのと同じで、「イイクニツクローカマクラバクフ」のように、「クルットシテフワフワタッター」などと唱えると大まかな振りは覚えられます。さらに、細かな動きは覚えづらいのですが、少しデフォルメして人に教えるかのように自分のからだに伝えると、いつの間にかからだが動きを記憶します。<br />
　とはいえ、振付の中にはどうやっても覚えにくいものがあります。動きにひとつの流れがあるものは、動きの軌道が線のように見えるので覚えやすいのですが、逆に、流れをあえて「裏切る」ものは覚えづらいです。<br />
　ダンス（即興以外の）は振付を記憶しないと踊れませんが、普段、日常で行う動きも、記憶の賜物です。記憶していなければ、たぶん靴さえも履けないでしょう。<br />
　<br />
　さて、記憶を辿ると……などとよく言いますが、どうでしょう。昔の記憶ってどこかしらあいまいさがあるが故に美化されたり都合の良いように変えられてしまったり、それも含めて、人間の持つ能力みたいで、僕はそんな記憶の曖昧さに大賛成なのです。今の携帯やデジタルカメラのように、必要以上にデータが残ってしまうのはなにか人間の持つ曖昧さに釘を刺しているようで、どうも好きになれません。<br />
　記憶の単位は、どんなものが良いのでしょう。3年前は「ひと昔前」なのでしょうか。それとも「ついこの前」なのでしょうか。また、すぐに薄れていく記憶もあるけれど、何年たっても錆びていかないものもあります。<br />
　記憶とはそれぞれの都合のよい解釈な気もします。人間、長く生きていけば記憶の山でパニックになりそうですが、結果そうではありません。都合の良い記憶に基づいて次なる行動に向かっているからだと思います。<br />
　上手に言えないのですが、いろんな場所で、いろんな時間で、我々は記憶を辿ろうとします。海を見に行ったり、墓参りに行ったり、馴染みの場所に行ったりするのは、以前そこで出会った風景、人、思い出にまた出会いたいからです。<br />
　先日、広島の平和記念公園を歩きました。小春日和な天気で、静かに原爆ドームが佇んでおりました。ふと足を止め、原爆ドームを見入る人がたくさんいました。そんな風景を眺めていると、人それぞれの思いみたいなものが交錯しているように見えます。思いは、みなさんそれぞれの記憶なのです。<br />
　我々は、磨りガラスのようにだんだん曇っていく記憶を時々磨いて、輝きを取り戻したくなるのかもしれません。それは決して合理的なことではないだろうし、無駄骨で終わることもあるでしょうが、それでも人は、生きている限り、繰り返し記憶を磨き続けます。それは体力のいることです。だから、記憶のためにはからだも大事なのです。</p>
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		<title>第18回：服をまとうこと</title>
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		<pubDate>Tue, 05 Apr 2011 02:09:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>lmhiroba</dc:creator>
				<category><![CDATA[ひみつのからだ、からだのひみつ]]></category>

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		<description><![CDATA[　小さな頃、我々に服を選ぶ権限はありません。 大人たちが着せ替え人形のごとく、「これは似合うね、かわいいねえ」などと言いながら選んでくるのです。そしていつからか、「この服イヤ！」「このスカートが欲しい」などと自分の好みに従って意見を言うようになります。 　僕は男の子だったのでどちらかというと服には無頓着だった気がしますが、中学が終わる頃には、服や靴の選り好みが始まっていた気がします。記憶の中では、そのきっかけは「ダサイ」のだけは避けたいという感情だった気がします。その頃の「ダサイ」の基準は、文字が入っている服や、伸び伸びのトレーナーなどです。 　僕は子どもにもかかわらず、∨ネックのセーターなどに凝っていました。それは多分昔の映画の影響だと思います。『クレイマー、クレイマー』のダンスティン・ホフマンや『ハスラー』のポール・ニューマンの着こなしがかっこいいなあと思っていました。 　しかし高校生になると、普通の都立高校で完全に私服だったのですが、そんな自由な校風だけに、僕はあえて学生服（中学校の時に使用していた学生服をそのまま着用）を着ていました。たぶん、みんなと同じになりたくなかったのでしょう。 　我々は舞台上で未だ学生服をまとっていますが、これが思いがけずよい気分なのです。学生服は、バンカラや応援団などのシンボルであります。が、そんなことは意識していません。 　コンドルズが学生服を着るようになった理由は大きく分けて二つあります。ひとつは、20才も過ぎた後でメンバーがどうにかして集められる共通の衣装が学生服しかなかったのです。なので、皆が着用している学生服も、衣装というよりはかつて自分もしくは弟などが羽織っていたものなのです。 　もうひとつは、「学生服＝愚かな男子学生＝掃除をしない大騒ぎする男子＝めちゃくちゃな放課後」みたいなイメージがあるのです。僕にとって学生生活、特に中学生活というものは、日本の学生時代の原風景であります。中学校の頃は、日本という国に馴染んだ頃であり、今思い返すだけでも、恥ずかしいほど日々の生活が大騒ぎであった気がします。違う言い方をすれば、毎日が何かしらのお祭りでした。 　登校中に川で一匹のアヒルを捕まえて授業中、スポーツバッグの中に隠していたら「くわっくわっ」という鳴き声で先生にバレて騒動になったり、下校中に理由もなく不良に絡まれたり、全校朝礼の際、保健委員なのをいいことに病人のふりをした友達と連れ立って保健室に行って遊んだり、理科室の人体模型やアルコールランプで遊んだり（決してマネしてはいけません）、先生の見えない所で大はしゃぎしたりしていました。 　そんな破天荒の数々の象徴が、自分にとっては「学生服」で、それが記憶の中でらんらんと輝いて見えるのです。 　学生服の魅力のひとつとして、モノトーンの世界があります。この部分は深いです。学生服という上下黒のシンプルな服は、実はモノトーンであり質素であり、そのぶん無個性で、からだの表現を自由にする服なのです。中学校の時、写真部にも属していましたが、白黒写真のみ。現像も焼き付けも自分でやっていました。その頃は、チャップリンや無声映画の白黒映像をくいいって見ていました。切り絵作家でもあった東君平さんの絵などにもはまりました。 　要は、その頃は白黒の世界のみで十分だったのです。大人になってグレーの世界も知り、改めて振り返ってみた時、あの中学校の頃が、最も白黒な世界に生きていました。そしてあの頃が最も自由に振る舞っていたのです。そう、学生服を羽織りながら。 　そんなこともあり、この年齢になった今もなお、学生服を着用しているのです。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　小さな頃、我々に服を選ぶ権限はありません。<br />
大人たちが着せ替え人形のごとく、「これは似合うね、かわいいねえ」などと言いながら選んでくるのです。そしていつからか、「この服イヤ！」「このスカートが欲しい」などと自分の好みに従って意見を言うようになります。<br />
　僕は男の子だったのでどちらかというと服には無頓着だった気がしますが、中学が終わる頃には、服や靴の選り好みが始まっていた気がします。記憶の中では、そのきっかけは「ダサイ」のだけは避けたいという感情だった気がします。その頃の「ダサイ」の基準は、文字が入っている服や、伸び伸びのトレーナーなどです。<br />
　僕は子どもにもかかわらず、∨ネックのセーターなどに凝っていました。それは多分昔の映画の影響だと思います。『クレイマー、クレイマー』のダンスティン・ホフマンや『ハスラー』のポール・ニューマンの着こなしがかっこいいなあと思っていました。<br />
　しかし高校生になると、普通の都立高校で完全に私服だったのですが、そんな自由な校風だけに、僕はあえて学生服（中学校の時に使用していた学生服をそのまま着用）を着ていました。たぶん、みんなと同じになりたくなかったのでしょう。<br />
　我々は舞台上で未だ学生服をまとっていますが、これが思いがけずよい気分なのです。学生服は、バンカラや応援団などのシンボルであります。が、そんなことは意識していません。<br />
　コンドルズが学生服を着るようになった理由は大きく分けて二つあります。ひとつは、20才も過ぎた後でメンバーがどうにかして集められる共通の衣装が学生服しかなかったのです。なので、皆が着用している学生服も、衣装というよりはかつて自分もしくは弟などが羽織っていたものなのです。<br />
　もうひとつは、「学生服＝愚かな男子学生＝掃除をしない大騒ぎする男子＝めちゃくちゃな放課後」みたいなイメージがあるのです。僕にとって学生生活、特に中学生活というものは、日本の学生時代の原風景であります。中学校の頃は、日本という国に馴染んだ頃であり、今思い返すだけでも、恥ずかしいほど日々の生活が大騒ぎであった気がします。違う言い方をすれば、毎日が何かしらのお祭りでした。<br />
　登校中に川で一匹のアヒルを捕まえて授業中、スポーツバッグの中に隠していたら「くわっくわっ」という鳴き声で先生にバレて騒動になったり、下校中に理由もなく不良に絡まれたり、全校朝礼の際、保健委員なのをいいことに病人のふりをした友達と連れ立って保健室に行って遊んだり、理科室の人体模型やアルコールランプで遊んだり（決してマネしてはいけません）、先生の見えない所で大はしゃぎしたりしていました。<br />
　そんな破天荒の数々の象徴が、自分にとっては「学生服」で、それが記憶の中でらんらんと輝いて見えるのです。<br />
　学生服の魅力のひとつとして、モノトーンの世界があります。この部分は深いです。学生服という上下黒のシンプルな服は、実はモノトーンであり質素であり、そのぶん無個性で、からだの表現を自由にする服なのです。中学校の時、写真部にも属していましたが、白黒写真のみ。現像も焼き付けも自分でやっていました。その頃は、チャップリンや無声映画の白黒映像をくいいって見ていました。切り絵作家でもあった東君平さんの絵などにもはまりました。<br />
　要は、その頃は白黒の世界のみで十分だったのです。大人になってグレーの世界も知り、改めて振り返ってみた時、あの中学校の頃が、最も白黒な世界に生きていました。そしてあの頃が最も自由に振る舞っていたのです。そう、学生服を羽織りながら。<br />
　そんなこともあり、この年齢になった今もなお、学生服を着用しているのです。</p>
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		<title>第17回：しぐさの数々</title>
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		<pubDate>Wed, 01 Sep 2010 19:44:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>littlemore</dc:creator>
				<category><![CDATA[ひみつのからだ、からだのひみつ]]></category>

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		<description><![CDATA[　生まれてすぐに赤ちゃんは泣き出します。 　元気よく「オギャー」と泣きつつも、その時、生まれて初めて手足を思いっきり伸ばすのです。「私は、とっても元気ですよ」という最初の「しぐさ」とも言えます。我々は　大人になっても目覚めの時など「オギャー」とは言いませんが「フアー」とか言いながら手足を伸ばして目覚めを拡張したりします。「目の瞬き」などはまさしく反射として捉えやすいですが、面白い時にパチンと手を叩いたり、スポーツでゴールを外した時に天を仰いだり、困った時に眉間のしわを寄せたりなど、そのあたりの動きになると「反射」なのか「しぐさ」なのかは不明であります。 　先天的か後天的かが見極めづらい動き、例えば相手に対して「かっー！」となった時、平手うちするかグーで殴るかは分りません。時間をかけて考えると、ここは　「平手うちの方が有効的だ」などと思いつきますが、その場合は叩くこと自体をやめることになるでしょう。「つい手が出てしまった」というシチュエーションは非常に興味深いのです。 　さて日常のしぐさは、もう数えきれないほど溢れています。そしてほとんどの日常のしぐさは、目的をもって行われます。それなので余計な心配をせずとも、しぐさを使うことができます。もし突然に「やさしい気持ちのしぐさをしてください」と言われても、目的がなければ難しいです。また「伝えたい」という強い気持ちがある時にもしぐさは発揮します。これは「表現」という部分にも関わってくるので、より複雑になってきます。 「身振り、手振り、振る舞い」と言いますが、これはニュアンスを捉えたステキな日本語だと思います。からだで伝えるしぐさの数々は、なんの境も前触れもなく、「舞い」の領域にも入り込んでいるのです。よく落語などでは、扇子を杯に見立てたりします。この「見立て」もしぐさの重要なアイテムであります。声まねが上手な人と同じように、しぐさの真似が上手な人は、表現の幅があるかと思います。 　昔は日常にあって現在ではほとんど見かけなくなってしまうような「しぐさ」もたくさんあります。「そろばん」「ダイヤル式電話」「剣玉」など昭和もしくはそれ以前の動きは、そのものが無くなるのと同時に、しぐさもなくなっていきます。逆に「メール送信」みたいな親指動作などは、新しいしぐさであります。「エアーギター」「エアードラム」「生まれたての子鹿」など今までも動きの延長として面白いものが登場します。まさしく「しぐさごっこ」なのです。 　一度「エアーな一日」と題して自分のとった行動、朝の起床からトイレに行って……などすべてを辿りながら一日をエアーで再現すると、なにか面白いことが見つかるかもしれません。でも一人でやるとさみしいので友達や同僚とやってみてください。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　生まれてすぐに赤ちゃんは泣き出します。<br />
　元気よく「オギャー」と泣きつつも、その時、生まれて初めて手足を思いっきり伸ばすのです。「私は、とっても元気ですよ」という最初の「しぐさ」とも言えます。我々は　大人になっても目覚めの時など「オギャー」とは言いませんが「フアー」とか言いながら手足を伸ばして目覚めを拡張したりします。「目の瞬き」などはまさしく反射として捉えやすいですが、面白い時にパチンと手を叩いたり、スポーツでゴールを外した時に天を仰いだり、困った時に眉間のしわを寄せたりなど、そのあたりの動きになると「反射」なのか「しぐさ」なのかは不明であります。<br />
　先天的か後天的かが見極めづらい動き、例えば相手に対して「かっー！」となった時、平手うちするかグーで殴るかは分りません。時間をかけて考えると、ここは　「平手うちの方が有効的だ」などと思いつきますが、その場合は叩くこと自体をやめることになるでしょう。「つい手が出てしまった」というシチュエーションは非常に興味深いのです。<br />
　さて日常のしぐさは、もう数えきれないほど溢れています。そしてほとんどの日常のしぐさは、目的をもって行われます。それなので余計な心配をせずとも、しぐさを使うことができます。もし突然に「やさしい気持ちのしぐさをしてください」と言われても、目的がなければ難しいです。また「伝えたい」という強い気持ちがある時にもしぐさは発揮します。これは「表現」という部分にも関わってくるので、より複雑になってきます。<br />
「身振り、手振り、振る舞い」と言いますが、これはニュアンスを捉えたステキな日本語だと思います。からだで伝えるしぐさの数々は、なんの境も前触れもなく、「舞い」の領域にも入り込んでいるのです。よく落語などでは、扇子を杯に見立てたりします。この「見立て」もしぐさの重要なアイテムであります。声まねが上手な人と同じように、しぐさの真似が上手な人は、表現の幅があるかと思います。<br />
　昔は日常にあって現在ではほとんど見かけなくなってしまうような「しぐさ」もたくさんあります。「そろばん」「ダイヤル式電話」「剣玉」など昭和もしくはそれ以前の動きは、そのものが無くなるのと同時に、しぐさもなくなっていきます。逆に「メール送信」みたいな親指動作などは、新しいしぐさであります。「エアーギター」「エアードラム」「生まれたての子鹿」など今までも動きの延長として面白いものが登場します。まさしく「しぐさごっこ」なのです。<br />
　一度「エアーな一日」と題して自分のとった行動、朝の起床からトイレに行って……などすべてを辿りながら一日をエアーで再現すると、なにか面白いことが見つかるかもしれません。でも一人でやるとさみしいので友達や同僚とやってみてください。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>第16回：からだの熱</title>
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		<pubDate>Tue, 01 Jun 2010 02:08:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>littlemore</dc:creator>
				<category><![CDATA[ひみつのからだ、からだのひみつ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.littlemore.co.jp/hiroba/karada/108.html</guid>
		<description><![CDATA[　ダンスのＷＳ（ワークショップ）を行っていると、いつの間にか人間の熱と汗でスタジオが湿ってきます。気がつくと大汗をかいたりします。汗は目で見て実感できるけど、体温はどうなんでしょう。 　風邪を引くと「熱が出た」となりますが、この熱が出る感覚って少し不思議です。同じからだの熱でも、人前に立ったり、好きな人に会ったりすると、たちまち顔を赤く染め上げる熱――心の熱によって感じるからだの熱、とでも言いましょうか――は、実際に体温に変化があるのでしょうか。一度計ってみたいものです。 　人間のからだの中でも、聴覚と体温ばっかりは、どうにも自分では調節が利きません。冬に薄着をしたら寒いのです。音は耳をきっちり塞がない限り聴こえるのです。冷え症だったり多汗症だったり、人はからだの持つ熱に関して個性を持っています。でも、自らの意思で調節出来ないからか、自分のからだの中のことなのに、「私、冷え症みたい」と何だか他人事です。風邪で熱があるときも、夢中になって踊っているときは気付きません。 　でも、からだの外の温度に関しては、もう少し敏感なのかもしれません。皮膚には触点、圧点、温点、冷点、痛点があるそうです。だから、人は大気中の温度もからだ全体で感じることができます。実際に見たり触れたりできるものの方が実感しやすいわけですが、空気中に漂う大気の温度を皮膚だけで「気持ちいい」とまで感じられるのは、改めて考えてみると凄いことです。 　からだの内と外の温度と密接に生きる必要がある人間は、お金や政治の問題以前に、温度に左右されている気もします。想像するに、南国のような気温とシベリアのような気温とでは、生活や考え方も随分違うと思います。 　話は変わりますが、これからの季節、火照ったからだを冷ますのに喉ごしがヒヤッとするものは最高ですね。子どもの頃はかき氷やアイスクリーム、大人になったらシャキっと冷えた生ビール。僕はビールが大好物ですが、なんであんなにたくさん飲めるんだろうと思います。たぶん水は2リットル飲めないですが、ビールなら可能なのです。まことに不思議です。 からだの70％は水で出来ていると言いますが、そう考えると、からだの水分と熱の関係は密接であります。発汗と言いますが、皮膚上で汗が蒸発して熱を奪う、その機能のおかげで恒温動物として平温を保っていられます。 　気温の変化で、我々は発汗の量が増したり減ったりしますが、それ以外は筋肉などを動かす自主的発汗であります。ここで一つ、僕の考えを聞いてください。「ストレスが溜まったり体重が増えたりしたら、走る」「眠い時または起きている必要がある時、目覚めが悪い時は、走る」「考えがまとまらなかったり焦ったりしたら、走る」。とにかく、からだを動かすことによって、そういう“自家発電”によって体内の熱を高め、心の熱を高める。そうやって、我々は案外簡単に状況を打開できるのかもしれません。冒頭で述べた、心の熱がからだの熱になるのとは逆に、からだの熱を心の熱にするのです。 　いつもからだを動かせとは言いません。正直、僕も走るのは得意ではありません。しかし我々は、生きている限り、自ら熱を生み出し続けなければなりません。それを辛いモノと考えるか、楽しいモノと考えるかは捉え方次第であります。 　子どもがはしゃいで走るとき、とても楽しそうです。我々は子どもの頃走ったときと同じような熱を感じるために、日々楽しいことを求めながら生きているのかもしれません。今度から風邪で熱が出たときは、心を燃やしてやる気を溜めていると思いましょう。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　ダンスのＷＳ（ワークショップ）を行っていると、いつの間にか人間の熱と汗でスタジオが湿ってきます。気がつくと大汗をかいたりします。汗は目で見て実感できるけど、体温はどうなんでしょう。<br />
　風邪を引くと「熱が出た」となりますが、この熱が出る感覚って少し不思議です。同じからだの熱でも、人前に立ったり、好きな人に会ったりすると、たちまち顔を赤く染め上げる熱――心の熱によって感じるからだの熱、とでも言いましょうか――は、実際に体温に変化があるのでしょうか。一度計ってみたいものです。<br />
　人間のからだの中でも、聴覚と体温ばっかりは、どうにも自分では調節が利きません。冬に薄着をしたら寒いのです。音は耳をきっちり塞がない限り聴こえるのです。冷え症だったり多汗症だったり、人はからだの持つ熱に関して個性を持っています。でも、自らの意思で調節出来ないからか、自分のからだの中のことなのに、「私、冷え症みたい」と何だか他人事です。風邪で熱があるときも、夢中になって踊っているときは気付きません。<br />
　でも、からだの外の温度に関しては、もう少し敏感なのかもしれません。皮膚には触点、圧点、温点、冷点、痛点があるそうです。だから、人は大気中の温度もからだ全体で感じることができます。実際に見たり触れたりできるものの方が実感しやすいわけですが、空気中に漂う大気の温度を皮膚だけで「気持ちいい」とまで感じられるのは、改めて考えてみると凄いことです。<br />
　からだの内と外の温度と密接に生きる必要がある人間は、お金や政治の問題以前に、温度に左右されている気もします。想像するに、南国のような気温とシベリアのような気温とでは、生活や考え方も随分違うと思います。<br />
　話は変わりますが、これからの季節、火照ったからだを冷ますのに喉ごしがヒヤッとするものは最高ですね。子どもの頃はかき氷やアイスクリーム、大人になったらシャキっと冷えた生ビール。僕はビールが大好物ですが、なんであんなにたくさん飲めるんだろうと思います。たぶん水は2リットル飲めないですが、ビールなら可能なのです。まことに不思議です。<br />
からだの70％は水で出来ていると言いますが、そう考えると、からだの水分と熱の関係は密接であります。発汗と言いますが、皮膚上で汗が蒸発して熱を奪う、その機能のおかげで恒温動物として平温を保っていられます。<br />
　気温の変化で、我々は発汗の量が増したり減ったりしますが、それ以外は筋肉などを動かす自主的発汗であります。ここで一つ、僕の考えを聞いてください。「ストレスが溜まったり体重が増えたりしたら、走る」「眠い時または起きている必要がある時、目覚めが悪い時は、走る」「考えがまとまらなかったり焦ったりしたら、走る」。とにかく、からだを動かすことによって、そういう“自家発電”によって体内の熱を高め、心の熱を高める。そうやって、我々は案外簡単に状況を打開できるのかもしれません。冒頭で述べた、心の熱がからだの熱になるのとは逆に、からだの熱を心の熱にするのです。<br />
　いつもからだを動かせとは言いません。正直、僕も走るのは得意ではありません。しかし我々は、生きている限り、自ら熱を生み出し続けなければなりません。それを辛いモノと考えるか、楽しいモノと考えるかは捉え方次第であります。<br />
　子どもがはしゃいで走るとき、とても楽しそうです。我々は子どもの頃走ったときと同じような熱を感じるために、日々楽しいことを求めながら生きているのかもしれません。今度から風邪で熱が出たときは、心を燃やしてやる気を溜めていると思いましょう。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>第15回：からだの秘密</title>
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		<pubDate>Mon, 26 Apr 2010 02:08:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>littlemore</dc:creator>
				<category><![CDATA[ひみつのからだ、からだのひみつ]]></category>

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		<description><![CDATA[　「からだ」という言い方に親しんでいるわりには、僕らはからだのことが完全には分かりません。初めから「所有」しているにもかかわらず、どこか実感がもてないところもあるのです。 　成長する中で徐々に大きくなっていくからだ。からだ年齢なんて言うけれど、全くあてになりません。本当のからだの年齢なんて誰にも決められないのです。日本では、20才になる と「成人」ですが、どこかの国では14才で結婚が認められるのと同じように、基準は曖昧です。 　分からないことばかりなので、皆生まれてから死ぬまで、からだを探り続けます。人間は自分のからだのマイナス要素をすぐ見つけられます。しかし良い部分は不思議なことになかなか見つけようとしません。他人や友達は、あなたの良い部分をすらすら見つけてくれますが、自分では「いやぁ、そんなことないですよ」と卑下してしまいがちです。 　もしも自分のからだが選べて、自分の希望通りのからだのパーツを集めてよいとしたら、どんなからだを求めるでしょうか。8頭身で顔の堀の深い、腰高のどんな服装も似合うような「からだ」を求めるでしょうか。でも自分だけならまだしも、友達や恋人のからだも選べるとしたら、どういうことになってしまうんでしょうか。同じような体格ばかり集まるのでしょうか。それともやっぱり千差万別にからだがあるのでしょうか。これは遠い未来には明かされるのかもしれません。 　毎日使っている自分のからだはすっかり馴染んでいるので、自分のからだのイメージと実際のからだとは、さほどズレはありません。服を見たら、それがおよそ自分が着られる大きさの服かどうか分ります。また、自分のからだが大きくなったイメージを頭に描くと、自然と手足が伸びて、からだも僅かですが、実際に大きくなります。 　からだが先か、イメージが先か、となると微妙なところです。人間は何でも自由にイメージ出来ますが、実際にからだが経験したことでないとイメージ出来ない場合もあるからです。しかし、人間のからだは学習する能力が非常に高いので、大抵のことは、実際に経験したことがなくてもイメージ出来ます。例えば、自分が老人になった時の感触を若いうちに体感することは難しいです。しかしなんとなくイメージは出来ます。からだのダルさなど、からだに刻まれた感覚の記憶を集めて感覚のイメージをつくることが出来るからです。 　想像するに、12才くらいまでには言葉に置き換えられるすべての事柄は、からだそのものがイメージ出来ることかもしれません。留置所に入らなくてもなんとなく留置所の苦しさが、火事に遭わなくても火事の熱さがなんとなくイメージ出来ます。生きるために必要な行動は、すべてからだがすでに記憶しているとも言えます。 　さらに言えば、からだには経験だけでなく、遺伝子のレベルで刻まれた記憶もあります。変な話ですが、口が口に近づいたらキスをしたくなります。目をつむれば眠くなります。ぼくらは行動を自ら決めているようで、どこかではからだの信号に従っているのです。 　お医者さんであっても風邪は引きます。それと同じように、情けないくらい我々は自分のからだに支配されているのです。と言っても、悲観する必要はありません。支配されているけれど、自分で行動が決められない訳ではありません。完全にコントロールされないし出来ない、その曖昧な部分が人間をより人間らしくする所なのかもしれません。そして、その曖昧さこそがからだのもつ秘密なのであります。 　話を大きくしましたが、最後に一つ。剥がしようがない自分のからだはどこまで行っても自分のからだです。どう料理しても構いませんが、自分を料理することは、かけがえのない「自分」を磨くことです。料理の味が不味くても、それは材料の問題ではなく志の問題、という気がします。からだは簡単には壊れません。いつか壊れることに対する不安もありますが、それ以上にからだはヨロコビを待ち望んでいる気がします。こんなことを空想しながら、「がんばろう」と自分のからだに言い聞かせるのです。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　「からだ」という言い方に親しんでいるわりには、僕らはからだのことが完全には分かりません。初めから「所有」しているにもかかわらず、どこか実感がもてないところもあるのです。<br />
　成長する中で徐々に大きくなっていくからだ。からだ年齢なんて言うけれど、全くあてになりません。本当のからだの年齢なんて誰にも決められないのです。日本では、20才になる と「成人」ですが、どこかの国では14才で結婚が認められるのと同じように、基準は曖昧です。<br />
　分からないことばかりなので、皆生まれてから死ぬまで、からだを探り続けます。人間は自分のからだのマイナス要素をすぐ見つけられます。しかし良い部分は不思議なことになかなか見つけようとしません。他人や友達は、あなたの良い部分をすらすら見つけてくれますが、自分では「いやぁ、そんなことないですよ」と卑下してしまいがちです。<br />
　もしも自分のからだが選べて、自分の希望通りのからだのパーツを集めてよいとしたら、どんなからだを求めるでしょうか。8頭身で顔の堀の深い、腰高のどんな服装も似合うような「からだ」を求めるでしょうか。でも自分だけならまだしも、友達や恋人のからだも選べるとしたら、どういうことになってしまうんでしょうか。同じような体格ばかり集まるのでしょうか。それともやっぱり千差万別にからだがあるのでしょうか。これは遠い未来には明かされるのかもしれません。<br />
　毎日使っている自分のからだはすっかり馴染んでいるので、自分のからだのイメージと実際のからだとは、さほどズレはありません。服を見たら、それがおよそ自分が着られる大きさの服かどうか分ります。また、自分のからだが大きくなったイメージを頭に描くと、自然と手足が伸びて、からだも僅かですが、実際に大きくなります。<br />
　からだが先か、イメージが先か、となると微妙なところです。人間は何でも自由にイメージ出来ますが、実際にからだが経験したことでないとイメージ出来ない場合もあるからです。しかし、人間のからだは学習する能力が非常に高いので、大抵のことは、実際に経験したことがなくてもイメージ出来ます。例えば、自分が老人になった時の感触を若いうちに体感することは難しいです。しかしなんとなくイメージは出来ます。からだのダルさなど、からだに刻まれた感覚の記憶を集めて感覚のイメージをつくることが出来るからです。<br />
　想像するに、12才くらいまでには言葉に置き換えられるすべての事柄は、からだそのものがイメージ出来ることかもしれません。留置所に入らなくてもなんとなく留置所の苦しさが、火事に遭わなくても火事の熱さがなんとなくイメージ出来ます。生きるために必要な行動は、すべてからだがすでに記憶しているとも言えます。<br />
　さらに言えば、からだには経験だけでなく、遺伝子のレベルで刻まれた記憶もあります。変な話ですが、口が口に近づいたらキスをしたくなります。目をつむれば眠くなります。ぼくらは行動を自ら決めているようで、どこかではからだの信号に従っているのです。<br />
　お医者さんであっても風邪は引きます。それと同じように、情けないくらい我々は自分のからだに支配されているのです。と言っても、悲観する必要はありません。支配されているけれど、自分で行動が決められない訳ではありません。完全にコントロールされないし出来ない、その曖昧な部分が人間をより人間らしくする所なのかもしれません。そして、その曖昧さこそがからだのもつ秘密なのであります。<br />
　話を大きくしましたが、最後に一つ。剥がしようがない自分のからだはどこまで行っても自分のからだです。どう料理しても構いませんが、自分を料理することは、かけがえのない「自分」を磨くことです。料理の味が不味くても、それは材料の問題ではなく志の問題、という気がします。からだは簡単には壊れません。いつか壊れることに対する不安もありますが、それ以上にからだはヨロコビを待ち望んでいる気がします。こんなことを空想しながら、「がんばろう」と自分のからだに言い聞かせるのです。</p>
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		<title>第14回：カラダの音</title>
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		<pubDate>Mon, 05 Apr 2010 03:57:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>littlemore</dc:creator>
				<category><![CDATA[ひみつのからだ、からだのひみつ]]></category>

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		<description><![CDATA[　僕は無類の楽器好きであります。音が出るということが好きなのです。 　小さな頃は、お菓子の箱を見つけると集める癖がありました。収納するためでなく、太鼓代わりに叩くためです。そろばんなどは「じゃらじゃら」と良い音がして、僕の中では高級な楽器でありました。 　僕たちが小学生の頃はハーモニカ、鍵盤ハーモニカ、リコーダーが主流でした。どれも手に持って操る楽器なので小学生に扱いやすかったのでしょう。特に僕はリコーダーにハマり、普通小学校で使うのはソプラノリコーダーなのですが、さらにアルトリコーダー、ソプラニーノリコーダーと集めはじめ、いつも学校の鞄にその楽器たちを持っていました。その癖はまだ治らず、大人になった今でも鞄にはハーモニカと笛が入っています。 　小さい楽器にはピアノやエレクトーンとは違った不思議な魅力があります。ホイッスル一つをとっても、その気になれば1キロ先まで響きが聴こえます。昔のヒトたちは、大声を出したり、木の実などを使って音を出したりして音の会話を楽しんでいたと思われます。その時代でもしゃべるのが得意ではなくとも、音を奏でるのがやけに上手というヒトたちが現れ、人前で「演奏」なるものを始めたりしたのでしょう。その光景を想像すると、愉快な気分になります。 　一人のヒトが何かしら音を奏でながら歌いはじめる。何かしらの高揚感でまわりの人々もじっとしていられず、カラダをゆすりはじめる。さらに音を出す、声を出すヒトも増えはじめ、しまいには全体が一つになったような盛り上がりを見せる――これはまさしく現在のライブコンサートとさほど変わりません。そして高揚感だけでなく、もっと繊細なココロの風景みたいなものも、きっと音楽や声にして表現されていきます。発散系ではない音楽の始まりです。内なる風景という繊細なものだけに、ヒトは丁寧に奏で、周りは静かに聴き入るようになります。 　これも今となんら変わらぬ風景です。カラダの思いを楽器で表すことに成功した歴史は偉大であります。ヒトに「気持ち」を伝えはじめたのです。現在でも何千種類という楽器が世界中にありますが、すべてに共通なのは、気持ちを奏でることです。 　アフリカの楽器に指ピアノというものがありますが、指で細長い鋼をはじきながら奏でる楽器です。その音色ごとで部族が分かるくらい細かく音の細分化がされています。面白いのは、そのお弁当箱くらいの楽器を彼らは手に持ってリズムを刻みながら踊るのです。最初に小さい楽器の話をしましたが、楽器と踊りは密接です。楽器のある所に踊りはあり、踊りがある所に楽器と歌はあるのです。もう少し極端に言うと、踊れない楽器はありません。奏でる以上、カラダは波打ちはじめます。立って弾く楽器はもちろんのこと、ピアノやハープなども、その奏でるヒトたちはみなカラダが美しく揺れ踊ります。 「私は音楽とかダンスとか苦手だから」ということを時々耳にしますが、大いなる間違いです。カラダの音を聴こうと思えば、必ずや聴こえてくるものだと思います。きっとコトバに記したり、話すことより簡単で嘘がつけない表現の一つだと思うのです。　]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　僕は無類の楽器好きであります。音が出るということが好きなのです。<br />
　小さな頃は、お菓子の箱を見つけると集める癖がありました。収納するためでなく、太鼓代わりに叩くためです。そろばんなどは「じゃらじゃら」と良い音がして、僕の中では高級な楽器でありました。<br />
　僕たちが小学生の頃はハーモニカ、鍵盤ハーモニカ、リコーダーが主流でした。どれも手に持って操る楽器なので小学生に扱いやすかったのでしょう。特に僕はリコーダーにハマり、普通小学校で使うのはソプラノリコーダーなのですが、さらにアルトリコーダー、ソプラニーノリコーダーと集めはじめ、いつも学校の鞄にその楽器たちを持っていました。その癖はまだ治らず、大人になった今でも鞄にはハーモニカと笛が入っています。<br />
　小さい楽器にはピアノやエレクトーンとは違った不思議な魅力があります。ホイッスル一つをとっても、その気になれば1キロ先まで響きが聴こえます。昔のヒトたちは、大声を出したり、木の実などを使って音を出したりして音の会話を楽しんでいたと思われます。その時代でもしゃべるのが得意ではなくとも、音を奏でるのがやけに上手というヒトたちが現れ、人前で「演奏」なるものを始めたりしたのでしょう。その光景を想像すると、愉快な気分になります。<br />
　一人のヒトが何かしら音を奏でながら歌いはじめる。何かしらの高揚感でまわりの人々もじっとしていられず、カラダをゆすりはじめる。さらに音を出す、声を出すヒトも増えはじめ、しまいには全体が一つになったような盛り上がりを見せる――これはまさしく現在のライブコンサートとさほど変わりません。そして高揚感だけでなく、もっと繊細なココロの風景みたいなものも、きっと音楽や声にして表現されていきます。発散系ではない音楽の始まりです。内なる風景という繊細なものだけに、ヒトは丁寧に奏で、周りは静かに聴き入るようになります。<br />
　これも今となんら変わらぬ風景です。カラダの思いを楽器で表すことに成功した歴史は偉大であります。ヒトに「気持ち」を伝えはじめたのです。現在でも何千種類という楽器が世界中にありますが、すべてに共通なのは、気持ちを奏でることです。<br />
　アフリカの楽器に指ピアノというものがありますが、指で細長い鋼をはじきながら奏でる楽器です。その音色ごとで部族が分かるくらい細かく音の細分化がされています。面白いのは、そのお弁当箱くらいの楽器を彼らは手に持ってリズムを刻みながら踊るのです。最初に小さい楽器の話をしましたが、楽器と踊りは密接です。楽器のある所に踊りはあり、踊りがある所に楽器と歌はあるのです。もう少し極端に言うと、踊れない楽器はありません。奏でる以上、カラダは波打ちはじめます。立って弾く楽器はもちろんのこと、ピアノやハープなども、その奏でるヒトたちはみなカラダが美しく揺れ踊ります。<br />
「私は音楽とかダンスとか苦手だから」ということを時々耳にしますが、大いなる間違いです。カラダの音を聴こうと思えば、必ずや聴こえてくるものだと思います。きっとコトバに記したり、話すことより簡単で嘘がつけない表現の一つだと思うのです。　</p>
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		<title>第13回：日常を走る、人生を走る</title>
		<link>http://www.littlemore.co.jp/hiroba/karada/88.html</link>
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		<pubDate>Mon, 08 Mar 2010 03:17:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>littlemore</dc:creator>
				<category><![CDATA[ひみつのからだ、からだのひみつ]]></category>

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		<description><![CDATA[　猛然と走りたくなるような衝動は、誰もが経験するものです。 　僕は子どもの頃から白い筋肉が多かったためか、瞬発的な走りには自信がありました。とにかく逃げ足が速かったのです。その分、中学校くらいから行う長距離走（10キロくらい）は苦手で、バテまくりでありました。 　さらに遡ると、遠足や家族旅行で広い高原などに連れて行ってもらうと、縦横無尽に走り続けたものです。今気づきましたが、小さな頃からサッカーが好きだったのは、ボールを蹴るという行為よりも、それ以上に「うりゃー」と広場をただ走り回りたかっただけなのかもしれません。 　でも最近、自分がそれほど猛然と走ってみたり、猛然と走ったりしている人を見かけたりしません。もちろん、競技場などでは秒数を競い合うために走ったりしますが、あれは特殊なケースです。ひと昔前の青春ドラマにありがちな「みんな！　走ろうか！」なんていうセリフは、今となっては死語に近いかもしれません。 　そもそも、「走る」目的はなんだったんでしょう。動物を観察して予想されるのは、獲物を捕らえるため。また逆に、捕食者から逃げ切るために走ったと思われます。小学校の頃読んだ本に、「アフリカのどこかしこの部族は、走りながら用を足すらしい」とあったのですが、それは用を足そうとしている瞬間が最も人命として危険にさらされているから、ということらしいです。うる覚えではありますが。現代社会でトイレが個別になったのは、そんな理由も考えられます。まあどちらにせよ、我々は本来の走る目的を見失ってしまったのかもしれません。 もう一つ空想であります。もし我々人間が1、2時間走り続けても、乳酸も溜まらず、息が上がることもなくいられたとしたらどうでしょう。街中で人々は常に走り続けていて、もしかすると電車も自動車も発展が遅れ、東京―箱根間くらいは走って家族旅行。会社でも「10分遅刻します」とか言いながら、3キロ先から何食わぬ顔して走ってくる、なんてことが起こるかもしれません。 　そう考えると、適度にくたばってしまう人間の非力は少しありがたいのかもしれません。「人は歩く、そして時々走る」という現在の姿はステキなのであります。 　ところで、最近のランニングブームは、高橋尚子さんの効用が大きいと思います。テレビで何度も彼女の走る姿を観ましたが、あんなに気持ち良さそうに走る日本人はいません。すばらしいと思います。あんなに気持ちよく走れたら、人生も気持ちよく走れそうです。東京マラソンなど市民マラソンに参加される方の多くは実に楽しそうに走っていますが、ちゃんと人生を走っているのでしょう。 　ニンゲンの走る姿は（シルエットでも）、日常の動きの中でもスペシャルなものだと思います。それは、「生命感」が溢れているから。大袈裟に言えば、「走る」ことを忘れてしまったら、ニンゲンおしまいです。誰もが徐々に訪れる老化には勝てませんが、走ることは生きることに前向きな証拠なのかもしれません。年齢を増した方でも、「次はどこで走ろうか！」と企んでいる人はたくさんいるのです。 　僕もそんなおじいちゃん、おばあちゃんを見習って、そして今の時代なので、「いつも走ってます」ではなく、「時々走ってます」と言えるようになりたいものです。　]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　猛然と走りたくなるような衝動は、誰もが経験するものです。<br />
　僕は子どもの頃から白い筋肉が多かったためか、瞬発的な走りには自信がありました。とにかく逃げ足が速かったのです。その分、中学校くらいから行う長距離走（10キロくらい）は苦手で、バテまくりでありました。<br />
　さらに遡ると、遠足や家族旅行で広い高原などに連れて行ってもらうと、縦横無尽に走り続けたものです。今気づきましたが、小さな頃からサッカーが好きだったのは、ボールを蹴るという行為よりも、それ以上に「うりゃー」と広場をただ走り回りたかっただけなのかもしれません。<br />
　でも最近、自分がそれほど猛然と走ってみたり、猛然と走ったりしている人を見かけたりしません。もちろん、競技場などでは秒数を競い合うために走ったりしますが、あれは特殊なケースです。ひと昔前の青春ドラマにありがちな「みんな！　走ろうか！」なんていうセリフは、今となっては死語に近いかもしれません。<br />
　そもそも、「走る」目的はなんだったんでしょう。動物を観察して予想されるのは、獲物を捕らえるため。また逆に、捕食者から逃げ切るために走ったと思われます。小学校の頃読んだ本に、「アフリカのどこかしこの部族は、走りながら用を足すらしい」とあったのですが、それは用を足そうとしている瞬間が最も人命として危険にさらされているから、ということらしいです。うる覚えではありますが。現代社会でトイレが個別になったのは、そんな理由も考えられます。まあどちらにせよ、我々は本来の走る目的を見失ってしまったのかもしれません。<br />
もう一つ空想であります。もし我々人間が1、2時間走り続けても、乳酸も溜まらず、息が上がることもなくいられたとしたらどうでしょう。街中で人々は常に走り続けていて、もしかすると電車も自動車も発展が遅れ、東京―箱根間くらいは走って家族旅行。会社でも「10分遅刻します」とか言いながら、3キロ先から何食わぬ顔して走ってくる、なんてことが起こるかもしれません。<br />
　そう考えると、適度にくたばってしまう人間の非力は少しありがたいのかもしれません。「人は歩く、そして時々走る」という現在の姿はステキなのであります。<br />
　ところで、最近のランニングブームは、高橋尚子さんの効用が大きいと思います。テレビで何度も彼女の走る姿を観ましたが、あんなに気持ち良さそうに走る日本人はいません。すばらしいと思います。あんなに気持ちよく走れたら、人生も気持ちよく走れそうです。東京マラソンなど市民マラソンに参加される方の多くは実に楽しそうに走っていますが、ちゃんと人生を走っているのでしょう。<br />
　ニンゲンの走る姿は（シルエットでも）、日常の動きの中でもスペシャルなものだと思います。それは、「生命感」が溢れているから。大袈裟に言えば、「走る」ことを忘れてしまったら、ニンゲンおしまいです。誰もが徐々に訪れる老化には勝てませんが、走ることは生きることに前向きな証拠なのかもしれません。年齢を増した方でも、「次はどこで走ろうか！」と企んでいる人はたくさんいるのです。<br />
　僕もそんなおじいちゃん、おばあちゃんを見習って、そして今の時代なので、「いつも走ってます」ではなく、「時々走ってます」と言えるようになりたいものです。　</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>第12回：にんげんの動き</title>
		<link>http://www.littlemore.co.jp/hiroba/karada/83.html</link>
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		<pubDate>Mon, 15 Feb 2010 05:49:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>littlemore</dc:creator>
				<category><![CDATA[ひみつのからだ、からだのひみつ]]></category>

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		<description><![CDATA[　うちの周りでは家の建て直しがたくさん行われています。想像するところ、築4、50年くらいの建物なのでしょう。すべてを壊して更地から建て直す場合もありますが、上手にメンテナンスしてまた新品建築のように甦るものもあります。 　しかし、我々人間の場合はそうもいきません。40才の人はどうあがいても築40年なのです。そりゃあボロくもなりますね。考えようによってはよく頑張っております。我ながら親への感謝と自分への感謝も感じる次第です。 　さて、先日ふと思いました。我々は1日起きてから寝るまでを1サイクルにした時、どれだけの「からだの動き」を繰り返しているのだろうか、と。まずは寝た姿勢から上半身をムクっと起こす。さらに床に立ち上がり、そのままトイレのノブの方へ引き寄せられたり、椅子に腰掛けたりします。細かく挙げたらきりがないですが、その短い間にもアラーム時計を止めたり、電気をつけたり、外の天気を眺めたり、スリッパを探したりと、からだ的には大忙しであります。 　試しに電車の中のにんげんの行動を動詞で箇条書きしはじめたら、池袋から渋谷の間だけでも200個くらいの「動き」が出てきました。 　僕らは何年もの間繰り返してしまう動きを「日常の動き」と呼んでいます。日常の動きがはもともとあったのではなく、繰り返すことによってからだが記憶した動きです。以前にも触れましたが、正座の動きはいまや若者のなかではあまり見られません。きっと、正座の位置から立ち上がるまでのからだの動きは、もはや日常のものではありません。もう200年も経てば、にんげんは正座から立ち上がれなくなるかもしれません。 　電車の中で挙げた動きの中で、減ってるなあと思ったものを列挙します。「踏ん張る」「しゃがむ」「落ち着く」「偉ぶる」「叱る」「飛び上がる」「涙が出る」「想像する」「ぎくしゃくする」「べたべたする」「立ち尽くす」「身を引く」「コケる」「人を支える」「ウィンクする」「もがく」「大きな声で呼ぶ」「口笛を吹く」「悔しがる」「振り返る」「息を飲む」――まあこれは順不同で思いつきです。 　こうやって書き出すと面白いです。個人個人でその傾向はもちろん変わるでしょうし、動きには静的なものもあれば動的なものもある。静的な動きはどちらかと言えば理性的、動的なものは感情を含み、状況によってはネガティブで凶暴なものにもなります。 　動きは、にんげんの歴史そのものと言えます。少し大袈裟に聞こえるかもしれませんが、にんげんがからだを保有する以上、自分がしている動きくらい責任を持ちたい所です。ましてや築40年になろうが自分が保有する唯一のからだ、そして動きなのです。まだまだ知らないにんげんの動きもあるはずなのです。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　うちの周りでは家の建て直しがたくさん行われています。想像するところ、築4、50年くらいの建物なのでしょう。すべてを壊して更地から建て直す場合もありますが、上手にメンテナンスしてまた新品建築のように甦るものもあります。<br />
　しかし、我々人間の場合はそうもいきません。40才の人はどうあがいても築40年なのです。そりゃあボロくもなりますね。考えようによってはよく頑張っております。我ながら親への感謝と自分への感謝も感じる次第です。<br />
　さて、先日ふと思いました。我々は1日起きてから寝るまでを1サイクルにした時、どれだけの「からだの動き」を繰り返しているのだろうか、と。まずは寝た姿勢から上半身をムクっと起こす。さらに床に立ち上がり、そのままトイレのノブの方へ引き寄せられたり、椅子に腰掛けたりします。細かく挙げたらきりがないですが、その短い間にもアラーム時計を止めたり、電気をつけたり、外の天気を眺めたり、スリッパを探したりと、からだ的には大忙しであります。<br />
　試しに電車の中のにんげんの行動を動詞で箇条書きしはじめたら、池袋から渋谷の間だけでも200個くらいの「動き」が出てきました。<br />
　僕らは何年もの間繰り返してしまう動きを「日常の動き」と呼んでいます。日常の動きがはもともとあったのではなく、繰り返すことによってからだが記憶した動きです。以前にも触れましたが、正座の動きはいまや若者のなかではあまり見られません。きっと、正座の位置から立ち上がるまでのからだの動きは、もはや日常のものではありません。もう200年も経てば、にんげんは正座から立ち上がれなくなるかもしれません。<br />
　電車の中で挙げた動きの中で、減ってるなあと思ったものを列挙します。「踏ん張る」「しゃがむ」「落ち着く」「偉ぶる」「叱る」「飛び上がる」「涙が出る」「想像する」「ぎくしゃくする」「べたべたする」「立ち尽くす」「身を引く」「コケる」「人を支える」「ウィンクする」「もがく」「大きな声で呼ぶ」「口笛を吹く」「悔しがる」「振り返る」「息を飲む」――まあこれは順不同で思いつきです。<br />
　こうやって書き出すと面白いです。個人個人でその傾向はもちろん変わるでしょうし、動きには静的なものもあれば動的なものもある。静的な動きはどちらかと言えば理性的、動的なものは感情を含み、状況によってはネガティブで凶暴なものにもなります。<br />
　動きは、にんげんの歴史そのものと言えます。少し大袈裟に聞こえるかもしれませんが、にんげんがからだを保有する以上、自分がしている動きくらい責任を持ちたい所です。ましてや築40年になろうが自分が保有する唯一のからだ、そして動きなのです。まだまだ知らないにんげんの動きもあるはずなのです。</p>
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		<title>第11回：見る、そして見られること</title>
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		<pubDate>Mon, 25 Jan 2010 02:34:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>littlemore</dc:creator>
				<category><![CDATA[ひみつのからだ、からだのひみつ]]></category>

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		<description><![CDATA[　子どもの頃は何を見ていたのでしょう。今思い返すと、子どもの頃は不思議なチカラがあったように思います。 　毎日過ごす家の中で、小さな配置換えや小物が増えたりすると、すぐに発見できました。遠くを見ていたようで、実は3メートル以内のことしか記憶になかったような気がします。子どもの頃見ていたものは、遠いとか近いとか関係なく、すべて3メートル以内に置き換えてアタマに入っていたのかもしれません。 　先日、狂言師の野村萬斎さんとお話しをしたときに彼が面白いことを言っていました。子どもの頃は、見ている目線の高さが低いというのです。犬の目線のような感覚です。確かに小さい頃、オトナを見るときは顔の部分ではなく、腰から下のあたりを大体感覚で見ていた記憶があります。 　また小さい頃は、前進あるのみの感覚で、目の前に繰り広げられるあらゆる楽しい出来事に一喜一憂していました。自分の背後を感じるようになったのは、随分大きくなった中学校の頃のような気がします。後ろを感じる感覚が、「見られる」という感覚の始まりなのかもしれません。前だけでなく、しっかりと周りを「見る」という意識が働いた時、見られることを意識しはじめ、そのヨロコビが始まるのです。 　小さい頃に前ばかり意識してしまうのは、言わば、2足歩行の人間の持つ宿命です。4足歩行の動物の場合、お腹側をさらすのは死を意味する危険な行為であります。人間の場合、そのお腹側を正面として歩まなければなりません。ネクタイをしたりブローチをつけたりして正面を飾りたがるのは、お腹側を守ろうとする名残なのかもしれません。 　お腹に比べると、背中の方は何も隠さず堂々と見せているような気がします。僕たちは通常の舞台に立つと、正面を見られることが多いです。しかしたまに円形の劇場などで360度全方位にお客様が入ると、非常に戸惑います。何を見られているかの感覚にズレが出てきます。能舞台にも正面があるのですが、客席の大部分は演者を斜め、または側面から見ることになります。 　たぶん、真っ正面から動きを見るのと側面から見るのとでは、意味さえも変わる気がします。道を塞ぐのに、向かってくる相手に対して手足を広げて表現したりしますが、背中側やカラダの側面を向けて表現する人はいませんから。 　さて、第1回で人類が2本足で立ったときのことを書きましたが、それに続きがあるとすれば次のようになると思います。 　立ち上がった人類はまず自分の腹側を隠しました。でも次の瞬間、隠していた両手を思い切って広げて「見てー！」と言わんばかりに腹をさらけ出したのです――。 　それは、まさしく勇気の始まりであり、恥ずかしさへの葛藤の始まりであり、「見る」「見られる」の深い関係が生まれた瞬間な気もします。 　事をやけに大きくして想像してしまいましたが、人って面白い動物だな、と改めて思います。まだまだ「見る見られるごっこ」には深い意味が隠されていそうです。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　子どもの頃は何を見ていたのでしょう。今思い返すと、子どもの頃は不思議なチカラがあったように思います。<br />
　毎日過ごす家の中で、小さな配置換えや小物が増えたりすると、すぐに発見できました。遠くを見ていたようで、実は3メートル以内のことしか記憶になかったような気がします。子どもの頃見ていたものは、遠いとか近いとか関係なく、すべて3メートル以内に置き換えてアタマに入っていたのかもしれません。<br />
　先日、狂言師の野村萬斎さんとお話しをしたときに彼が面白いことを言っていました。子どもの頃は、見ている目線の高さが低いというのです。犬の目線のような感覚です。確かに小さい頃、オトナを見るときは顔の部分ではなく、腰から下のあたりを大体感覚で見ていた記憶があります。<br />
　また小さい頃は、前進あるのみの感覚で、目の前に繰り広げられるあらゆる楽しい出来事に一喜一憂していました。自分の背後を感じるようになったのは、随分大きくなった中学校の頃のような気がします。後ろを感じる感覚が、「見られる」という感覚の始まりなのかもしれません。前だけでなく、しっかりと周りを「見る」という意識が働いた時、見られることを意識しはじめ、そのヨロコビが始まるのです。<br />
　小さい頃に前ばかり意識してしまうのは、言わば、2足歩行の人間の持つ宿命です。4足歩行の動物の場合、お腹側をさらすのは死を意味する危険な行為であります。人間の場合、そのお腹側を正面として歩まなければなりません。ネクタイをしたりブローチをつけたりして正面を飾りたがるのは、お腹側を守ろうとする名残なのかもしれません。<br />
　お腹に比べると、背中の方は何も隠さず堂々と見せているような気がします。僕たちは通常の舞台に立つと、正面を見られることが多いです。しかしたまに円形の劇場などで360度全方位にお客様が入ると、非常に戸惑います。何を見られているかの感覚にズレが出てきます。能舞台にも正面があるのですが、客席の大部分は演者を斜め、または側面から見ることになります。<br />
　たぶん、真っ正面から動きを見るのと側面から見るのとでは、意味さえも変わる気がします。道を塞ぐのに、向かってくる相手に対して手足を広げて表現したりしますが、背中側やカラダの側面を向けて表現する人はいませんから。<br />
　さて、第1回で人類が2本足で立ったときのことを書きましたが、それに続きがあるとすれば次のようになると思います。<br />
　立ち上がった人類はまず自分の腹側を隠しました。でも次の瞬間、隠していた両手を思い切って広げて「見てー！」と言わんばかりに腹をさらけ出したのです――。<br />
　それは、まさしく勇気の始まりであり、恥ずかしさへの葛藤の始まりであり、「見る」「見られる」の深い関係が生まれた瞬間な気もします。<br />
　事をやけに大きくして想像してしまいましたが、人って面白い動物だな、と改めて思います。まだまだ「見る見られるごっこ」には深い意味が隠されていそうです。</p>
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