時々人間として情けなく思えるくらい物忘れします。まあ多かれ少なかれ皆同じような経験をすると思いますが、どうでしょう。「大事なことだから覚えておこう」なんて思っても忘れてしまうものです。そう、カギを開けるための暗証番号でさえ忘れてしまうのです。
僕は家族に3つ上のお姉さんがいますが、僕の姉は、記憶力が半端なく良かったのを覚えています。自分が小学生の頃、姉ちゃんと喧嘩しても「あの時あんたがこう言ったのよ!」と言われ、結局自分では全く記憶にないため姉に全敗していました。
ちょっとした行いの差が大きな記憶の差を生むことも姉との比較で知りました。
姉は黒板の字をノートに書き写すのが上手で(日本語の字もきれい)、それも書き方に浮き沈みがありません。それに比べ、僕はノートに書いても自分で読めないくらい汚いし、字も間違えたまま。それは差が出ますよね。
僕の姉は、結果、語学能力が非常に高く、今や英語、スペイン語は会話以上に使えて、それ以外にも、フランス語、イタリア語、ドイツ語もそれなりに使えます。僕はというと、日本語も含めて未だにギリギリである確信があります。
書き写して覚える、というのはからだに記憶させているとも言えます。
からだの記憶といえば、僕の専門である振付はその最たる例かもしれません。振付を覚えるのは、一般の人には非常に難しいことかもしれませんが、僕には言葉を覚えるより簡単な作業です。一般の人は動きを言葉に置き換えて覚えてしまいがちですが、踊り慣れている人の場合、動きを動きとしてからだで覚えるからです。
また不思議なことに、例えば15分間の振付の内容でも、頭の中で回路が繋がれば1分間で復習できます。意味がよくわからないと思いますが、記憶の時間は圧縮(or 短縮)できるのです。
少し種を明かすと、動きの連なりを記憶するにはそれなりのコツみたいなものがいると思います。年号を覚えるのと同じで、「イイクニツクローカマクラバクフ」のように、「クルットシテフワフワタッター」などと唱えると大まかな振りは覚えられます。さらに、細かな動きは覚えづらいのですが、少しデフォルメして人に教えるかのように自分のからだに伝えると、いつの間にかからだが動きを記憶します。
とはいえ、振付の中にはどうやっても覚えにくいものがあります。動きにひとつの流れがあるものは、動きの軌道が線のように見えるので覚えやすいのですが、逆に、流れをあえて「裏切る」ものは覚えづらいです。
ダンス(即興以外の)は振付を記憶しないと踊れませんが、普段、日常で行う動きも、記憶の賜物です。記憶していなければ、たぶん靴さえも履けないでしょう。
さて、記憶を辿ると……などとよく言いますが、どうでしょう。昔の記憶ってどこかしらあいまいさがあるが故に美化されたり都合の良いように変えられてしまったり、それも含めて、人間の持つ能力みたいで、僕はそんな記憶の曖昧さに大賛成なのです。今の携帯やデジタルカメラのように、必要以上にデータが残ってしまうのはなにか人間の持つ曖昧さに釘を刺しているようで、どうも好きになれません。
記憶の単位は、どんなものが良いのでしょう。3年前は「ひと昔前」なのでしょうか。それとも「ついこの前」なのでしょうか。また、すぐに薄れていく記憶もあるけれど、何年たっても錆びていかないものもあります。
記憶とはそれぞれの都合のよい解釈な気もします。人間、長く生きていけば記憶の山でパニックになりそうですが、結果そうではありません。都合の良い記憶に基づいて次なる行動に向かっているからだと思います。
上手に言えないのですが、いろんな場所で、いろんな時間で、我々は記憶を辿ろうとします。海を見に行ったり、墓参りに行ったり、馴染みの場所に行ったりするのは、以前そこで出会った風景、人、思い出にまた出会いたいからです。
先日、広島の平和記念公園を歩きました。小春日和な天気で、静かに原爆ドームが佇んでおりました。ふと足を止め、原爆ドームを見入る人がたくさんいました。そんな風景を眺めていると、人それぞれの思いみたいなものが交錯しているように見えます。思いは、みなさんそれぞれの記憶なのです。
我々は、磨りガラスのようにだんだん曇っていく記憶を時々磨いて、輝きを取り戻したくなるのかもしれません。それは決して合理的なことではないだろうし、無駄骨で終わることもあるでしょうが、それでも人は、生きている限り、繰り返し記憶を磨き続けます。それは体力のいることです。だから、記憶のためにはからだも大事なのです。