第26回:愛と冒険 第二部 後篇

2011年06月24日

前篇から

 「いらっしゃい…?」とこちらを見る義母の表情は「誰?」と言っていました。義母はここ1年で急激に認知症が進んでいました。前から体が弱くほとんど家にいたきりではありましたが頭は丈夫な人でした。夫とキョウコのことも、夫は隠しているつもりでいましたが、ちゃんと義母は知っていました。
 2年前の義父の法事のとき、台所でお茶を淹れていると義母が入ってきて二人きりになりました。私はこの家に滅多に寄りつかない嫁であるため義母と二人きりになると後ろめたいような気持ちになり、世間話すら上手くできませんでした。毎回義母の方から何か話してもらっていました。そのときも最初に口を開いてくれたのは義母で、何言か話すと、唐突に「サキコさんいつもごめんね」と言いました。私は何と返していいかわからぬままつっ立っているうちに、義母は居間にいる誰かから呼ばれ台所を出て行ってしまいました。私はすぐに夫とキョウコのことを義母は言ったんだとわかりました。“いつもごめんね”と謝られる程私は“いつも”この家には来てはいませんでした。“いつも”この家に来る二人のことを義母は謝ったのです。後から思えば、この法事のときもそうですが、私がこの家に来るとわかっている日はいつも、キョウコは義母の使いで家にいることがありませんでした。私はずっと夫が事前に連絡してそういうことにさせているのだと思っていましたが、このとき、義母がいつも気を使っていてくれたということがわかりました。
 「ほらおかあさん、トシオ君とサキコさんですよ」と義母に説明するキョウ
コを見て、この人はヒデオが「今日は嫁が来るから外出してくれ」と頼んでいたらむしろ、絶対に外出しないタイプかもな、と思いました。“おかあさん”は今や毎日会うキョウコぐらいしか覚えていません。
「ママー!」とトシオがやはり両手を広げ立ち上がって言いました。トシオが両手で母親を包むと、義母はトシオから抜け出て、キョウコに「どこの外人や?」と言いました。トシオはポカンと口を開けていました。もちろんアホをわざわざアピールしている訳ではありません。泣きそうな顔で、「僕やでお母ちゃん! トシオや!」と言いますが義母は「いやこわい!…」と言って、キョウコの後ろに隠れました。キョウコがトシオを慰めるように「おかあさんちょっと前から具合悪いねん。ヒデオさん帰ってきたらトシオ君に話すつもりやったんやけど…」とキョウコが言うも、トシオは下を向いたきりもう何も言いません。「もうもどろ」と義母がキョウコに言い、キョウコが義母を連れて行きました。
 居間にトシオと二人。トシオが下を向いて「なんで教えてくれへんねん?」と言いました。
「心配かけない方がいいと思てん」
「義姉さんも親おるからわかるやろ、こんな情けないことないで」
「仕方ないやん」
「仕方ないことないやろ俺知らんでアホみたいにオルガン売ってたやないけ!何で知らせんのじゃ!」
「そんなこと言うたってアンタ連絡先なんてないやん。仕方ないわ」
「なんやねん仕方ないって! 何とか出来たやろ!」
「出来ひんわ! 半年くらい前にお義母さんどんどん悪なるからってヒデオさんとアンタの知り合いみんなに聞いてまわったわ!」
「たらんねん!」
「何言うてんのよ好きなとき出て行って好きなとき帰ってくるだけのくせに今更やわ、ショーもない。何がオルガンやホンマショーもない。役に立たんやつが役に立たんもん売りやがってショーもないねんお前!」と言った後に、ビール飲み過ぎやなと思いました。
「義姉さん、ワイが何も知らんと思っとるんか?」とトシオが再び切り出しました。
「ハ?」
「ワイは全部知っとるんやで?」
「ハ? キョウコさんのことか? アンタじゃなくてもみんな知ってるわ!」
「チャウチャウ。今日何でチビら連れて来んかったんや? 連れて来れんかったんやろ?」
「何言うてんの? だから動物園に…」
「チャウやろうが。下の子、兄ちゃんの子チャウやろ? そらこの家連れて来づらいナア」
「よう言うわアホかハゲ!」
「ハゲ言うな!」
「ハゲにハゲ言うて何が悪いねんハゲ!」
「…!…まあエエ、ワイはそんなことどうでもエエ。とにかくワイはお見通し、ちゅうことや。兄ちゃんも知っとんで。前ワイが帰ってきたときに兄ちゃんが調べとったんや。興信所のスギオ君ワイの同級生やねん」とトシオが言う間、私はずーとテーブルの上の皿に乗ったカニを見ていました。出されたのはいいが、なんとなく皆揃ってから、と手をつけられずにいたカニ。夫待ちのカニ。テ−ブルに運ばれてきたときはきれいに茹で上げられて鮮やかな朱色だったのに、今はもう乾いて変色し茶色がかっているカニ。そのカニを見ているうちに無性に腹が煮えくり返ってきて、またカッと熱くなりました。私が茹で上がりました。私はカニを摑みトシオの頭めがけて投げつけました。見事ヒットしました。カニのブツブツがトシオの毛に絡まり、ヅラが少しヅレて、カニがトシオに引っかかるかたちでトシオにぶら下がりました。
「ヤッタ!」と思わず言うと、トシオの顔がみるみる赤く染まっていきました。それを見て「カニや!カニや!」と指をさして笑い、頭のどこかで「こんなんしてたら気がふれたと思われる、アカンでアカンで」と思っているのに、その直後、カニの重さに耐えられなくなったヅラがとうとうズルッと落ちてきて、トシオが反射的に両手で受け止めたのです。
「毛ガニや! 毛ガニやな?! トシオ君これ毛ガニやんなあ?!!」
私は「アカンもう言うこときかへん、分裂気味や」とヤケクソでトシオの手にすっぽり包まれた毛ガニを指さして笑いました。そしたら本当に分裂したと思うくらい「パキーン」という、大きな音が頭に響き、目の前が急に真っ白になったのです。私はトシオに殴られました。
「何してんやお前!!」
「サキコさん大丈夫?!」
と見えないけれど、いつ来たのか夫の声とキョウコの声がそれから聞こえました。目が開くと畳と毛ガニと足が見えました。足は夫の足でした。私は夫の左足を両手で摑み、少しづつ登って立ち上がりました。その間誰も喋りませんでした。夫の目を見ると喋っていないのに「何してんねんお前」と今はトシオにではなく私に言っていました。
「エラいすんませんでした」と頭を下げ、私は玄関へ向かいました。
 玄関を出ようとすると、キョウコだけが追ってきて、
「ちょっと待って! サキコさんカニ持っていき! 沢山あるから子供たちと食べ! すぐやからちょっと待っててな!」と言って台所へとって返して行きました。キョウコは鉄の脳ミソじゃなく、ただちょっとやそっとじゃビクともしない頑丈な心を持っているのかもしれない、と思いました。そう思ったらいても立ってもいられず私は走って逃げました。負け逃げでした。

 駅のトイレで口をゆすぎ、殴られた所を髪で隠すのに鏡を覗きました。乾いたカニでした。

 それから妹の家へ子供を迎えに行きました。ムスメが「お母さんなんやその髪、ゲゲゲみたいやー」と私の手前に垂らした髪を見て笑いました。「姉ちゃんそれ傷か?」と妹は気づいてしまい、この子がヒデオの暴力がまた始まったと勘違いして母に告げ口したのでしょう。夜道をムスメとムスコと3人で「ゲ・ゲ・ゲゲゲのゲー」と歌って帰りました。

つづく

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プロフィール



宇野祥平

1978年、大阪府生まれ。主演した短篇映画『女』『鵜野』(両作とも監督・前田弘二/05)がひろしま映像展2005でグランプリと演技賞を受賞し注目を浴びた。以降『オカルト』(監督・白石晃士/09)『超・悪人』(監督・白石晃士/11)等の映画に主演。その他の映画出演作に『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(監督・松岡錠司/06)『フレフレ少女』(監督・渡辺謙作/08)『くりぃむレモン 旅のおわり』(監督・前田弘二/08)『ウルトラミラクルラブストーリー』(監督・横浜聡子/09)『ゲゲゲの女房』(監督・鈴木卓爾/10)『NINIFUNI』(監督・真利子哲也/11)『劇場版 神聖かまってちゃん/ロックンロールは鳴り止まないっ』(監督・入江悠/11)『婚前特急』(監督・前田弘二/11)『ハラがコレなんで』 (監督・石井裕也/11)『キツツキと雨』(監督・沖田修一/12)『苦役列車』(監督・山下敦弘/11)『黄金を抱いて翔べ』(監督・井筒和幸/12)『横道世之介』(監督・沖田修一/13)など多数。『舟を編む』 (監督・石井裕也)、『ぼっちゃん』(監督・大森立嗣)が現在公開中。テレビドラマには『深夜食堂』(09、11/TBS)に準レギュラーとして、『D×TOWN~太陽は待ってくれない~』(12/TX)では準主役として出演。BeeTVにて配信中のドラマ『午前3時の無法地帯』にもレギュラー出演している。舞台においても『真夜中vol.3鳥ト踊る』(作・演出:ノゾエ征爾/11)、あうるすぽっとプロデュース『季節のない街』(作・演出:戌井昭人/12)などに出演。

ひとこと・ふたこと

宇野さんが紹介した映画『自由が丘で』は2014年12月13日(土)シネマート新宿ほかにて全国順次公開です。