第31回:ぼっちゃん

2013年03月14日

 3月16日に公開される大森立嗣監督の『ぼっちゃん』という映画があります。コンプレックスを持った派遣労働者の青年の物語です。世の中は外見、金、能力できっちりと境界線がひかれ、仕事、友達、女は避けても自分のテリトリーに入り込んでくる、という通常の事に青年は悩みます。どう乗り越えて行くかが青年に問われます。
 僕は映画『ぼっちゃん』を思うと、夏目漱石ではなく福沢諭吉を思い出します。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と教えた人の顔が、ある集落のピンクの提灯の下で行ったり来たりしていることが、大森監督のこの作品で青年を圧迫しているものと近いと思うからかもしれません。あの集落で、コンプレックスに悩み、叫んだ青年、いやあの時はまだ少年、を僕は知っています。

 
 汚い70過ぎくらいのバアサンが大阪のある集落の裏通りのさらに外れの一番端、一日中日陰である一軒屋の玄関前に、体の節々を曲げながらも仁王立ちし、「ニイちゃん、ニイちゃん、遊んで行き、エエ、ネーチャンおるで〜」と、たまに通る日陰に染まる男達に声をかけている。バアさんの奥に玄関、さらにその奥に四畳ほどの居間があって、そこのコタツに僕、同級生のボーボー、同じくキンジョウ、そしておそらくこの家のお父さんであろう40くらいのオッサンが入っている。オッサンは新聞を読みながらすぐ真横のテレビに手を伸ばし、たまにチャンネルをガチャガチャ変える。僕ら3人は緊張し、コタツの2辺に3人で縮こまって座っている。ここは同級生のボケヅラ家で、ボケヅラはまだ帰っておらず、学校で部活動に勤しんでいるはずだ。同じ野球部である僕はこの日は部活を休んだ。ボケヅラに気をつかったのである。
 ボケヅラの家は売春宿だ。この集落は大阪の中心地の落窪んだ穴のような土地にあり、あからさまに他の地域と隔てる構造、雰囲気がある。ほとんどの家がボケヅラの家と同じ家業を営んでいる。
 オッサンのガチャガチャ回していた手が止まる。大滝秀治の顔が映る。『特捜最前線』の再放送だ。その音を聞いてか、玄関と反対側にある磨りガラスで仕切られていた台所からボケヅラの妹がせんべいの乗った皿を持って居間に出てきて、ちょうど空いていたコタツの1辺に陣どる。せんべいは僕らのためかな、と思ったが、妹は無言で自分だけせんべいを食べ、『特捜最前線』を見る。黄色のLEOと書いたトレーナーにチェックの赤っぽいズボンで、たしか一つ下の小6だ。おかっぱで兄と同じ顔をしている。新聞を読んでいるオッサンとは全然似ていない。僕らは制服から着替えて、一様に大人っぽいと思っている服を選んで着ている。ボーボーは田舎のヤンキーが愛用するメーカーの服を着ており、レインボーカラーに金の刺繍がボーボーの胸元で“Santa Fe”と綴っている。
 テレビから流れるかすれた大滝秀治の声と、玄関の方から聞こえるやはりかすれた、しかもよどんだバアサンの声が僕ら居間にいる者の静けさを際立てる。
 それを打ち破るかのように2階から突如、「ありがとね〜」と女の声がとびこむ。僕ら3人は顔を見合わせ、3人ともそれまで固まっていたのに、モゾモゾとコタツの中で落ちつきをなくして動きだす。その動きを察した妹の目が一瞬テレビから僕らへと向けられる。見んなや、と殴りたくなる。居間の横、玄関へつづく階段からメガネをかけた中年の男が下りてくる。薄っぺらいヤッケを着ながら玄関に下り、バアサンが呼び込みをやめて差し出す汚い靴に足をいれる。「またおいで」と子供の友達に言うようにメガネの男をバアサンが送る。そのバアさんがくるっとこちらに振り向き、「お前ら夜混むからチャッチャとすませ、ホラ」と手の平を突き出し、僕らはその上に5千円ずつのせる。本当は1人1万5千円のところを、ボケヅラの友達ということと、少年だから3人で一人前ということで、この値段で上がらせてもらった。
 バアサンは金をもらうとチリンチリンと階段の側面に吊るしてある寺の鐘を小ちゃくしたようなやつを鳴らす。すると「えーでー」と2階から声。
 僕らは「誰から行く?」「いんじゃんしよか?」「生まれた順は?」と、もうオッサンも妹も気にしていられなく、コタツの中でジタバタする。するとオッサンが初めて口を開く。「オマエ行け」とオッサンはキンジョウを指す。「ハイ!」とキンジョウがコタツから機敏に出て、2階へと消えてゆく。
 

 バアサンはもう表で呼び込みをはじめている。『特捜最前線』は夕焼けを映しながらエンディングテーマ「私だけの十字架」が流れている。妹がコタツから出てゆく。それを待っていたかのようにボーボーが僕に「次どっちいく?」と言う。ボーボーと僕はオッサンを見る。しかしオッサンは新聞の影になっており動く気配もしゃべる気配もなく、「じゃあオレな」とボーボーが言うので、「なんでやねん」と僕は止める。僕は一番最初も嫌だったが、最後はもっと嫌だった。「いんじゃんやな」とボーボーに言うと、ボーボーが、「ショウチャンはオバチャンの事好きなんか?」と真顔で聞いてくる。
「は?」
「愛してるんか?」
「何言ってんねん」
「オレは愛してる。だからオレが先や」と言って妹が置いていったせんべいをとり、パリっと噛む。バリバリとせんべいの音。そこへキンジョウが下りてくる。うっすら笑っており、でも気持ち悪さよりも爽やかさの勝った顔である。「どうやった?」と聞くと、うっすら笑ったまま質問には答えず、「次男おいでって」とニヤニヤして言う。すかさず「よっしゃ、よっしゃ」とコタツを出ようとするボーボー、「いんじゃんやろ!」とボーボーのサンタフェを引っ張る僕、そして「オマエ行け」と言うオッサン。指されたのは僕である。
 

「レモンのかき氷みたいやね」とユカタ姿のオバチャンが僕のパンツのしみを見て言う。シャツを脱がしてもらっていると、オバチャンの口紅からオカンの口紅と同じニンジンみたいなニオイがしてきて、「もうこのシャツちっちゃいで」とオバチャンにオカンに言うような事を言ってしまう。アカン、こいつをオカンと一緒にしたらオレはあっち側へ行かれへん。ジタバタする奴とニヤニヤする奴の境界線をつい先ほど目の当たりにした僕は一瞬萎えそうになった心と体を奮い立たせようと自分を鼓舞するも、するまでもなく、僕はアッと言う間にオバチャンにあっち側に連れていかれる。浮世絵の女の人をガリガリにしたようなオバチャンをできるだけ見ないようにするため、うっすら目を開けて動く白い人と低い黒っぽくなった天井にぼんやり焦点を当てて、境界線を越えた安心感にひたる。
 

 階段を下りている途中でババアとボーボーがコタツの前で睨み合っているのが見えた。それをうっすら笑ってキンジョウがコタツから見ており、妹は戻っておらず、オッサンは新聞を読んでいる。玄関のあがりには別のオッサンが腰掛けている。そのオッサンはタバコを吸いながら夕方のニュースが始まったつけっぱなしのテレビを見ており、オッサンの後ろに見える町並は夕暮れである。
「アカンもんはアカン!」とババア。
「約束とちゃうやんけ!」とボーボー。夕暮れのように真っ赤な顔をしている。
 僕はキンジョウの横に座り「何あったん?」と聞くと、どうやらババアは呼び込みで客をつかみ、その客、すなわち腰掛けてるオッサンが「すぐ入れるんやったら入る」と言い、ババアはもちろん3人1万5千円で3人の僕らよりも1人1万5千円のオッサンの方を優先し、まだ済んでないボーボーに「アンタこの人の次や」と告げ、それを受けてボーボー、「キンジョウとショウチャンの次やったらエエけど、つまり三男やったらエエけど、オッサンの弟になるんは絶対嫌や!!」と反論。ババアが「後も先も一緒や」、ボーボーが「ほんなら先や!」、ババアが「アホか! やっすうウチの娘買いやがって!」、ボーボーが「1人5千円でエエゆうたんオマエやんけ! 殺すぞババア!」、腰掛けのオッサンが「5千円でエエんか?」、ババア「うっさいハゲ!」、腰掛けのオッサン「もうええわ」ババア「どこ行くねんハゲ!」、ハゲ「他にするわ」、新聞のオッサン立ち上がり、「アンタ次行きなさい」とハゲを指し、自分は夕暮れの外へと出て行く。ハゲがまた腰掛ける。僕が2階から下りてくる。泣きそうになって真っ赤な顔のボーボー「ホワイ?!」と習い立ての英語でババアに食い下がる。「おまえ悪魔か! 便所街の悪魔や!」とさらにまくしたてた。この集落はもともと池の底であったため穴ぼこであることを悪意を持って便所と例えられることがあるのだ。ババア「もうエエ、アンタらコイツ連れて帰れ。さしたらん。アンタははよ上がり」と、ハゲに手の平を突き出す。ハゲは五千円出す。ババア「帰れ!」とハゲに言う。ハゲ、帰ろうとする。ババア「上がれ!」とハゲに言う。ハゲ、階段を上がって行く。ハゲも再放送をさっきまで見ていたのだろうか、「私だけの十字架」を機嫌良く口ずさむ。僕とキンジョウはボーボーを玄関へ引きずりながら、「絶対今日は無理やって。今度こよ?ナ?」となだめ、引き上げようとする。すると、キンジョウがまだどこか笑みをたたえていたせいか、ボーボーが「自分だけやったらエエんか! ズルすんな! 汚いねん!オレはオマエらと違ってなア」とわめきだす。ボーボーは真っ赤な顔が引きずられて外に出る直前、「オバチャンを」と言い、真っ赤な顔が外に出て町の色と同化した直後、「愛しとんねん〜!」と叫ぶ。その言葉は夕暮れの売春宿街に響きわたり、まさに絵空事の響きをもっていた。どの宿の住人も「ウソつけ」と思ったに違いない。
 僕は中に戻ってババアに「1人してないから5千円返してや」と言うと、「迷惑料や」と言い返される。いつの間にか階段の下の方に妹が座っていて、「かあさん、アイシテルやって〜」と2階の母親に向かって大声で笑いながら言う。母親と一緒にいるハゲの「黙れガキ!」とひっくり返った声が返ってくる。それを聞いて妹がまた笑う。兄とオバチャンにソックリな顔のこの妹もそのうち唇からニンジンのニオイをさせて、2階の部屋にいるようになるのかなア、と僕は思い、ババアに「あの子もオバチャンとおんなしになるんかなア」とそのまま思ったことを聞くと、その途端、ババアが靴べらで殴りかかってくる。入れ歯を食いしばりながら外に出ても殴り続けてきて、そのコワさで僕も、外で泣いていたボーボーも、うっすら笑って慰めていたキンジョウも走って逃げる。ババアが見えなくなっても妹の笑い声だけが追いかけてくる気がする。目の前には夕焼けが広がっており、『特捜最前線』のエンディングに見える。キンジョウもそう思っていたのか、走るのをやめて「私だけの十字架」を歌いはじめる。「オレもその歌思ってた」と僕がキンジョウに言うと、ボーボーが「オ、オレも!」と必死に言う。あきらかに嘘だったが、ボーボーは僕らとの差は何であれ無いとアピールしているのは確かで、僕はそっとしておいたが、キンジョウは「オマエ意味わからんやろ?」とうっすら笑ってボーボーに言う。僕も歌詞の意味なんかわからなかったが、ボーボーが「オマエわかってんのか!?」とムキになってキンジョウに聞いたので、黙っていた。キンジョウは夕焼けを見上げて「なんか、そんな感じすんねん、こう、背負ったっちゅーな」と言う。「なあ、ショウチャン」と僕に同意を求めてきたので、「そやなあ」と答える。僕はキンジョウのように空を見上げられず、ボーボーの面倒な雰囲気もうっとおしく、横に目をそらす。するとある一軒の宿の中に目がとまる。新聞のオッサンがボケヅラの家で見たのと同じ姿勢でやはり新聞を読んでいる。
 僕は見るべき所がわからなくなり、結局空を見上げる。すると噓のように夕焼けが消えており、灰色と青色のどんよりよどんだ宵の口の空に変わっている。僕は十字架を発見出来ない。なんだか「オマエらの十字架なんか知らんはボケ」と天から言われているようだ。
 集落を分け隔てる土手をのぼった所で、突然ボーボーが「オレな、ショウチャン、二度とこんなとこ戻らんで」と言う。「ここはな、弱いもんイジメの町や。おれみたいなもんはイジメられんねん。何でやと思う? 愛でしか動かんからや! 愛を知らんもんがでっかい面して我々をいじめるんや! ちっこい時からチン毛ボーボーなんオレのせいか? キンジョウどうやねん! 背負ってるとかゆっとったけどナア! 何もこいつにはないで! 貴公子とかゆわれて調子のっとんねん! ずっと嫌いやねん!」とボーボーはわめきながらキンジョウをどつきはじめる。「汚いねーん! 汚いねーん!」と、暴れるボーボー。その時である。
「何が汚い〜ん?」と僕らの背後から声がする。
 泥だらけのユニホームを着たボケヅラがいた。またがったままチャリンコを止めて僕ら3人を見ており、そのボケヅラの後ろには完全に夜になった空と、いつのまにか灯った集落のピンク色の提灯が見える。「明日は部活さぼったらアカンで〜」と言うボケヅラの背中には、どう見ても一番重い十字架があった。

 

 ボーボーは翌日、また集落に行きました。どこから手に入れたのか一万五千円を握りしめ、「ビール出せワレ」とでかい態度でババアに挑み、ババアは「なめんなチビ」と言いながらも客を迎え入れ、少年ボーボーは2階に昇る足が震えてはいたが15分後晴れて青年ボーボーとなったそうです。ボケヅラが笑って教えてくれました。こうしてボーボーのコンプレックスは解消されました。ボーボーは「愛」を説くことをやめ、一切の道徳を語らぬ福沢諭吉の紙を使って一歩世の中に踏み出したのです。前の日に見たボケズラの十字架がボーボーを導いたのだと僕は思います。
 映画『ぼっちゃん』の中で見られる友情の喜びが僕は好きです。一人では世の中にいる事がとても難しいのだと思い知らされます。

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プロフィール



宇野祥平

1978年、大阪府生まれ。主演した短篇映画『女』『鵜野』(両作とも監督・前田弘二/05)がひろしま映像展2005でグランプリと演技賞を受賞し注目を浴びた。以降『オカルト』(監督・白石晃士/09)『超・悪人』(監督・白石晃士/11)等の映画に主演。その他の映画出演作に『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(監督・松岡錠司/06)『フレフレ少女』(監督・渡辺謙作/08)『くりぃむレモン 旅のおわり』(監督・前田弘二/08)『ウルトラミラクルラブストーリー』(監督・横浜聡子/09)『ゲゲゲの女房』(監督・鈴木卓爾/10)『NINIFUNI』(監督・真利子哲也/11)『劇場版 神聖かまってちゃん/ロックンロールは鳴り止まないっ』(監督・入江悠/11)『婚前特急』(監督・前田弘二/11)『ハラがコレなんで』 (監督・石井裕也/11)『キツツキと雨』(監督・沖田修一/12)『苦役列車』(監督・山下敦弘/11)『黄金を抱いて翔べ』(監督・井筒和幸/12)『横道世之介』(監督・沖田修一/13)など多数。『舟を編む』 (監督・石井裕也)、『ぼっちゃん』(監督・大森立嗣)が現在公開中。テレビドラマには『深夜食堂』(09、11/TBS)に準レギュラーとして、『D×TOWN~太陽は待ってくれない~』(12/TX)では準主役として出演。BeeTVにて配信中のドラマ『午前3時の無法地帯』にもレギュラー出演している。舞台においても『真夜中vol.3鳥ト踊る』(作・演出:ノゾエ征爾/11)、あうるすぽっとプロデュース『季節のない街』(作・演出:戌井昭人/12)などに出演。

ひとこと・ふたこと

宇野さんが紹介した映画『自由が丘で』は2014年12月13日(土)シネマート新宿ほかにて全国順次公開です。