秋になって、5年暮らしたアパートを出た。
ヒデオとムスメはヒデオの実家に先に越した。キョウコはヒデオ達が越してくる前に新しい介護人の電話番号を残して出て行った。トシオから聞いた。トシオは私とムスコの引っ越しを何故か手伝いにきた。ズラこそ新しくなっていたが、トシオの態度は毛ガニの一件の前となんら変わらなかった。トシオにムスメの様子を聞くと、「ネエさん今の子はそのへんたくましいんや! アメリカンナイズされとるからな! 離婚の2、3ベンなんてどうって事ないわ! 大人より大人や! ははは! いや、大人が子供や! ネエさんも兄ちゃんも負けとる負けとる! キョウコも負けや負け! 俺は勝ちやで? 逃げてへんもん大人だもん。ロマンチックな大人なのよ。嘘やないでホンマやで!」と言っていた。
私は知り合いのクリーニング屋を継いだ。平屋で手前が店、奥が住居。住居の真ん中へんにくっついているコンクリ張りの風呂場。風呂場についた勝手口から出る小さい庭がついている。おとついムスコが犬を拾ってきた。風呂場を犬小屋にしている。庭に大きな古い木が一本生えていて、物干を置いたらもう場所がないので犬小屋を置けなかった。勝手口を開け放して昼は庭と風呂場をぶらぶらさせている。
今日は店の定休日で、離婚してから初めて実家へ行く。風呂場に犬を入れるムスコに「名前つけた?」と聞いたら「まだ」と言う。水も餌も全部自分でやりたがるので先に外に出る。店を抜けて、店の入り口兼玄関でムスコを待っていると、風呂場からうっすら「コロ、水のみ」とムスコの声が聞こえた。この家に来る前、引っ越しの費用を借りに弟のミツオの家にムスコと行った。ミツオは今や立派に嫁と子供3人と暮らしており、2年くらい前に家も建て、そこのきれいな芝の庭で飼っている犬の名前がコロだった。
「はよ行くでー! おやつ買ったらんぞー!」とムスコを呼ぶと、飛び出して来る。
母は私が嫁に行った後、家を買った。今はそこに父と二人で暮らしている。母の土地は、まだ大阪一にはほど遠いがうまく転がってちょっと大きくなっていた。駅から5分歩いて着く。父は競艇場に出勤していて、母1人だった。家の中は静かだった。離婚する少し前から母は私を呼び戻そうとした。離婚した後、やはりこの家に来いと母は言ったが、断った。年をとり、みんないなくなって寂しいのだろう。冷たいようだが母の言葉を優しさにはとれず、勝手さばかり感じてうんざりした。
母は昼飯にごちそうを用意していた。私がまだ学生の頃、母は少し無理してでも正月にごちそうを作ってくれた。懐かしいものばかりだった。ムスコが大喜びで食べているのを見て母が「アンタ、ちゃんと食べていけてんのか?」と私に聞いた。またこの家で暮らせと言ってくるかと思い、牽制する気持ちで「順調や」と答えた。「そうか」と言いながら母が泣き出した。
「ちょっと何お母さん? そんなに寂しいんか?」
「あ? 何言ってんの? ちゃうちゃう、アンタのあんときの昼飯思い出して泣けてきたわ。あのひもじいの子供と食べて…」
母がアパートに乗り込んできた日の昼飯の事だろう。自分じゃ、そんなに粗末な物を食べているつもりはなかった。それに嫁へ行く前、もっと貧しい食事をしていた覚えがあった。
「お母さんと暮らしてるときの方が凄まじいごはんよく食べたで…」
「頼むから、子供においしいもん頼むから食べさせてや、食べれんくなったらすぐ帰ってこい」
母に後悔が見え、私はムスメの顔が頭に浮かび、母への反発よりも同調が上回った。下を向いて肉のスープをすすっていると、ムスコが「ん?」と顔を覗き込んできた。その後は顔を上げて食べた。後悔先立たず。もっとこれから大きくなるであろう後悔に備えてたくさんごちそうを食べた。後悔しながらも役所には結局勝ちつつある母がたくましいと思えた。
洗い物をしていると父が帰ってきた。酔っ払っており、「お前は賢い! リコンは正義や! ババアお前がケチな金よこすから全部負けたやないか!」と帰ってきて早々母にケンカをふっかけた。ムスコに蜜柑を剥きながら母は「うるさいハゲやでホンマ。アンタ一回も負けてない。自分の金で勝負してないやろ。ワタシの負けや」と奇襲に動じず、蜜柑を食いながらの一撃でケンカを終わらせた。帰り際父が真面目な顔して「お前早く再婚せえ。金稼いでるとろくな人間にならん」と母に隠れて言った。
電車を降り、夕暮れの中、眠ったムスコをおぶって歩いた。電車の中から見た看板の文字が頭にある。『黒木太郎の愛と冒険』。映画かなんかのタイトルだろうか。オペラかもしれない。愛と冒険、という響きに痴話ゲンカを想像してしまう。私は沈む夕日に重ねて私たちの愛と冒険をオペラにして思い浮かべた。初めて見るオペラはくだらないしょーもない全然疲れのとれない物語だった。しかし達成感だけはあった。幕が閉じていくが誰も「ブラボー」を言わない。かわいそうなので自分だけでも「ブラボー」と言おう。本当に声に出して言ったらムスコが起きた。「何?」と言うのでブラボーやブラボー、と教えてやると、楽しそうにブラボーを何回も言う。エエぞ! そうやブラボーや! 線路沿いの家路を、今日までの賛辞ではなく明日からの励ましのように「ブラボー!」と、ムスコと叫んだ。
犬に餌をやりにムスコが風呂場へ行った。「おかあさーーん!」と呼ばれ行ってみると犬が死んでいた。庭に埋めようとして犬を抱き上げたら犬の下からなんか出てきてビックリして落としてしまった。コンクリも犬も固くゴンと鈍い音がした。犬の下から出ていたのは柔らかい木の芽だった。庭の老木の新芽がコンクリを突き破って出てきたようだ。ムスコよ得意のあの言葉を言おう。
「ブラボー」