『アノスミア わたしが嗅覚を失ってからとり戻すまでの物語』モリー・バーンバウム 著/ニキリンコ 訳

 僕の家出の思い出は2つあって、ひとつは、まだ小学生低学年の頃。家出しようと家を飛び出したはいいものの行く場所が思いつかず、近所の川原の草むらに身をかがめていたことを覚えています。徐々に暗くなる中、青臭い草の匂いが身にまとわりついて、なんとも寄る辺のない気持ちになりました。
 もうひとつは、同じ頃(家出が流行っていたんですかね?)、やっぱり行く場所がなくて、今度は家の隣のトタン作りのガレージに隠れました。物置も兼ねていたそのガレージはジメジメしてかび臭く、自転車のサドルにまたがってペダルをこいでいてもしばらくしたら虚しくなって、家に帰ったら、誰にも家出と気づかれなかったというのも、家出の思い出としてはあります。

 家出をした理由なんて何も覚えていませんが、思い返すのは草の匂いや、ガレージのジメッとした匂いだったりします。
 思い出と匂いがこんなに密接なのはなぜでしょうか?

 シェフ志望の女性、モリーは9月からの調理師学校の入学を控えて、町で一番のレストランの見習いアルバイトをしていました。毎日たくさんのフレッシュな食材、独創的なシェフの料理、そして初めての匂いに囲まれて、彼女は料理人への道を歩き出す。はずでした。
 彼女を不運な交通事故が襲います。全身に外傷を負った彼女がなによりもショックだったのは嗅覚が全く失われてしまったこと。
 そんな彼女が嗅覚を取り戻すまでの長い道のりが書かれます。
 嗅覚には二段階あって、一つは文字通り匂いをキャッチする感覚。そして大事なのが同化と呼ばれる、その匂いが何の匂いかを判断して、言葉にする能力です。
 無色透明の世界の中で、ローズマリーの匂いだけが感じられたことをきっかけに、徐々に感じる匂いが増えてくる彼女。しかしそれが肝心の記憶、つまり思い出と結びつかず言葉にすることができません。
 一旦嗅覚をなくすことで、彼女はその大切さに気づき、一つ一つの感覚を積み重ねて立体的な「嗅覚」と呼ばれるものへとたどり着きます。

 人間の身体と心のつながりという、普段はあまり意識しないことを、嗅覚というやっぱり普段あまり意識しない感覚を通して体感できる、刺激的な本でした。