『雪屋のロッスさん』 いしいしんじ 著

 素敵な小説というのは、何かふとしたきっかけで、こちらの方に語りかけてくれるような存在だと思っている。ずっと忘れたままでいたことが、ぱちんと音をたてる。スイッチが入り、電流が通うと、はからずも当時の記憶といま目の前にひろがる光景が混ざりあいながら、自分の中に流れ込んでくるのを感じる。
 東京に雪が降った時に、僕が決まって思い出すのは『雪屋のロッスさん』で、それがなぜかと言われたら、まったく見当がつかない。31個の小さな物語がつまったこの短編集には、調律師や風呂屋や果物屋や図書館司書など、さまざまな職業を持つ人が登場するのだが、僕は「雪屋」という耳慣れない仕事に勤しむロッスさんを陰ながら応援している。
 意外な需要があるというその雪屋、ここで語られるのはクリスマスイヴのお話だ。普段は雪が降らないというその街の広場を、自慢の造雪機で銀色にしたロッスさん。街の人々も嬉々として雪の世界をたのしんでいるのだが、そこに現れた一人の男が「雪なんぞみな溶かしちまえ!」と暴れ出したからたいへんだ。
 ことの顛末はぜひ読んでみて欲しい。雪というものが人の記憶の深くてほの暗い部分に降り積もりやすいのだということを思い出す。一方で、それはいつか溶けてしまうものだということも。
 わずか6ページの儚い小作品である『雪屋のロッスさん』。溶けても残るものがあるという意味では北極というより南極的な物語なのかもしれない。