『フラニーとズーイ』 サリンジャー 著/村上春樹 訳

 今週は「きざし」というお題。「兆し」と書いて、「目に見えない転換」のことを指す場合と、「萌し」と書いて「実際に見える転換」を表す場合があるそうなのだが、今日は見える方の変化について。
 最近、目に見える変化で驚いたことといえば、サリンジャーの小説『フラニーとズーイ』。そう、野崎孝の翻訳で読んでいた『フラニーとゾーイー』が、村上春樹の最新翻訳では「ズーイ」になったわけだ。「Zooey」だから確かに「ズーイ」と読むことにストレスはないし、訳者の村上によると2013年公開のドキュメンタリー映画『サリンジャー』では「ズーイ」という発音で統一されていたらしい。あとは彼の個人的な語感なのだという。
 ともあれ、「ゾ」と「ズ」では、随分違うな。「ゾ」という言葉に感じる個人的行き止まり感と、「ズ」という音の「うしろに引きずるような粘り気」(これも僕の個人的な感想です)は、なんだかまったく違う!とひとり鼻息荒く読みすすめた。
 確かに後半部分の「ズーイ」における兄による妹の説得シーンは、粘り気のある高速回転のエンジンが唸りをあげているような読み心地。「議論小説」として、力強く変貌を遂げている印象を受けた。一方で、その議論の内容であるキリスト教観や東洋思想、エゴにまつわる言説は、むかしも今もそうだけれど、なかなか没入はできなかったというのが正直なところ。
 この小説はサリンジャーが描いた「グラース家」の長大なサーガの一部だが、もういちど全体を見渡したうえで読んでみたいなと思い、本棚の奥に忘れていた『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』をがさごそと引っ張り出してきたのだった。