『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む―レイモンド・チャンドラー、清水俊二、村上春樹―』松原元信 著

 サラリーマン稼業を勤め上げ、隠居しながらホッと一息ついていた松原元信(今年78歳)が、村上春樹訳の『ロング・グットバイ』を偶然手にしたことがこの本の始まりだった。青春時代に清水俊二訳の『長いお別れ』に親しんでいた彼は、村上が描いたテリー・レノックス像に戸惑いを覚えてしまったのだ。そこで、松原なりに両者の翻訳を読み比べてまとめようとしたのが本書『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』である。
 オリジナルであるチャンドラーの原典『The Long Goodbye』を引っ張り出して、3冊の本を見比べながら、翻訳者によって物語がどのように彩られるかを丁寧に読み解いてゆく。ちなみに、隠居人の素人仕事だと舐めてかかると痛い目に合います。重箱の隅を突くような言及も的を射ているが、なによりも英語で書かれたテキストを、他の言語でどう楽しむべきなのか?という次元まで考えが及んでいる。
 また、本のスタンスとして特に素晴らしいと思う部分が、村上訳と清水訳の「どちらがより良い翻訳か」を探ろうとするのではなく、両者が生み出した違いを知り、それをもってチャンドラーの世界をより楽しもうとする松原の心意気。ここまで楽しんでもらえれば、チャンドラーも本望だろう。
 清水訳では原文を平気で何行か飛ばしているし、村上版マーロウはまるで彼自身の小説の主人公のように思えてくる。原典、翻訳、そして分析の三位一体の面白さが味わえる1冊だが、やはりオリジナルに接することが大切だとも再認識した。『フラニーとズーイ』も機会があったら、原文をあたってみようかなあ。