『捨てる女』内澤旬子

 衣替えの季節である。と、書こうとしたけれど、もう完全に夏ですね。折り目正しく衣類を入れ替える余裕もなく、タンスの奥に眠る半袖シャツなどを出かける直前の何十秒でさがしあてるのが僕の衣替えである。
 とはいえ、たまっていく衣類の処分は何とかしなきゃいけないのだけれど、パンツや靴下の捨て時がいまだにわからない38歳の初夏。パンツ的機能(なんだ、そりゃ?)は果たしうるのだが、なんだかみすぼらしくなっているような気もする。けれど、履こうと思えば、まだまだいける。そんなパンツといつ決別するべきかのジャッジが何よりも難しい。まあ、結論としては、生活の流れのまま、離れ時を察して捨てるという芸当のできない自分は、「捨てる」という行為を目的化しないとならぬわけだ。
 で、内澤旬子の『捨てる女』。つらつらと愉しく読み切ってしまった。世にあふれる「断捨離本」で描かれる「捨てた後に訪れる精神的高み」に疑問をいだいていた僕には、丁度よい本でした。捨てたところで、いろいろなモヤモヤは続いていくのである。そりゃ、そうだ。捨てたぐらいで、なんとかなるほど人生も世の中もイージーじゃないぜ。
 イラストルポライターの肩書きを名乗っていた彼女は、仕事道具も資料の本も大量に所有。それに加えて、自身の蒐集癖も幼少の頃からの筋金入り。そんな内澤女史が、暴走機関車のように捨てまくって至った心持ちがこの本には記されている。「捨てる」というバニシングポイントに向かう彼女の疾走感に迫力があるのだが、そのあとに残る寂寥感が読後の味わいの主になる。大切なのは何をどう捨てるかではなく、捨てたあとの自身のすすみ方ですな。
 比較的本持ちの僕も、自身の来歴をみるように本棚を眺めたりするけれど、大量の本を手放した彼女がどうなったのかは、ぜひ読んで確かめて欲しい。前作の『身体のいいなり』もそうだけど、彼女の本を読むと自身を成すささやかだけど大事なものについて、いつも考えてしまう。