『翻訳問答 日本語と英語行ったり来たり』片岡義男・鴻巣友季子 著

 片岡義男さんといえば小説『スローなブギにしてくれ』や、ボブ・ディランの『タランチュラ』、『絵本ジョン・レノンセンス』の翻訳などで、特に70年代〜80年代のアメリカのカルチャーを日本に紹介した第一人者。
 鴻巣友季子さんはJ.Mクッツェーの『恥辱』を翻訳したり、ブロンテの『嵐が丘』で、主人公の女性を既存の「嵐が丘」観とは異なる肉食女子のように描いたりと、現代の翻訳家としてすごく新しい眼を持った注目すべき人だと思っています。そんな二人で翻訳についてとことん話しましょう、ということで出来たのがこの本です。
 ジェイン・オースティン、レイモンド・チャンドラー、サリンジャー、モンゴメリー、カポーティ、ブロンテ、エドガー・アラン・ポーの7名の作品の原文が最初の見開きに掲載されています。例えば、サリンジャーであれば『バナナフィッシュにうってつけの日』。ちなみにこの言い方は野崎孝さんの訳で、柴田元幸さんの訳だと『バナナフィッシュ日和』になる。タイトルから違ってくるのも面白いですね。
 そして次に、その7人の原書のある1ページを、僕だったらこう訳すね、私だったらこう訳すわ、ということで見開きの右側に片岡訳、左側に鴻巣訳が掲載。同じオリジナルを2人の翻訳者が訳すわけです。しかも、それを2人で「せーの」と自分が訳してきたものを見せ合う。もちろん、訳者が違うと物語も微妙に違う匂いを纏うんですが、「え、ここをこう訳すんだ」みたいなことをずっと二人で話し合うという超マニアックで濃厚な翻訳本です。僕はこれがすごく面白かった。
 サリンジャーが書いたグラース家のサーガの始発点ともいえる作品『バナナフィッシュにうってつけの日』は、ニューヨークのホテルのシーンから始まります。507号室の女性が電話をかけようと思って、電話交換の空きを調べるんですが、全然繋がらないという場面。まずはそこで、〝女〟と書くのか、”娘”と書くのかで、全然イメージが違ってきますよね。鴻巣さんはあえて〝娘〟という言葉を選びました。そこには鴻巣さんなりの理由があります。一方で、片岡さんが〝女〟と訳したのは、こういうわけで…、というように、それぞれ正解があるわけではないんですが、自分のなかでとことん原書やその背景を突き詰めて、それを自分の中で一度咀嚼して、そのうえで、媒介者としてこういう風に翻訳作業した、ということが正直に書かれています。僕は、翻訳って究極の二次創作だと思うのですが、それをどういう風に考えてやっているのかというプロセスをここまで露にしちゃうのがすごい。そして、一方では翻訳者の矜持も見えるところが面白い本だと感じた理由ですね。
 あともう一つ読みどころは、最初の片岡さんと鴻巣さんの対談。「翻訳って何?」という根源的なところを、かなり深く掘り返しています。僕なら深夜にお酒を飲みながら話してないとここまでいかないよ、というくらい濃厚なところまで潜っているんです。翻訳者としての2人の覚悟を感じてくらくらしちゃいました。
 ちなみに日本では、作者に対して翻訳者が透明だと良い翻訳と言われるようです。まるで、ジェイン・オースティンが書いているかのような日本語の文章であるということが、日本におけるこれまでの正しい翻訳のあり方とされてきた。でも、海外だと違っていて、作者というよりは読者のなかに素直に入ってくる翻訳が透明なものとされている。仮に村上春樹作品のなかにお祭りのシーンがあったとして、それをロシア人が翻訳したら、オリジナルに忠実だと日本のお祭りは云々と注釈を入れるじゃないですか。だけど海外だと、それはまるでロシアのお祭りであるというように置き換えて書いてしまった方が、透明性という意味ではいいと言われるらしいんです。それはどっちがいいんだろうね、というように、この本のタイトル通りで答えを探す問答を2人でし続けています。
 翻訳っていうと、皆さんはあんまり二次創作のイメージが無いかもしれないですけど、こうやって二者が対比されてそれぞれに違う答え、考え方があることを知ると確かに二次創作の究極形だと納得してもらえる気がします。

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