『シェフを「つづける」ということ』井川直子 著

 いろいろな場所で紹介してしまったのだが、今年の上半期で最もぐっときた本となると、『シェフを「つづける」ということ』について触れないわけにはいかないだろう。
 食にまつわる物書きのなかでも、個人的に共感することが多い井川直子さんのノンフィクション。この本は、10年前にイタリアで修行する若き料理人たちを取材した『イタリアに行ってコックになる』の続編とも呼べるもの。あの当時若かったシェフたちの現在が丁寧に描かれている。
 目次をひらき、そこに並ぶレストラン名やシェフの名前がわからない人も安心してほしい。僕もほとんど知らない。けれど、本書で紹介するシェフたちの生き様は、読者の琴線のどこかに触れることだろう。なぜなら、ここには「好きなものにしがみついて何とか生きる」という人の強い願いがつまっているからだ。
 日本最年少の三つ星シェフは、スペインの厨房で人種差別を巡って胸ぐらをつかみ合う大喧嘩。帰国後は母の介護で料理そのものから離れなければならない時間を経験した。あるシェフは「非ヘルペス性辺縁系側頭葉脳炎」という脳にウィルスが侵入する病気を患い障害を抱えることに。今は車椅子シェフとして活動している。流れ流れてシンガポールや北京に辿り着いた者。沖縄で家族経営の小さな店を営む者。彼らの道のりはすべて曲がりくねり、思うように進めたものは一人としていなかった。
 それぞれの10年を感じながら、個々の紆余曲折に僕は想いを馳せる。10年前のイメージ通りに歩めた人は誰もいない。けれど、それでいいじゃないか。それが、いいじゃないか。井川の文章は、どのシェフの10年間も肯定し、優しく包み込むような味わいだ。
 思えば、僕もバッハという会社を始め、今年で10年。苦労もしたし、会社が潰れるかも! なんて恐怖を抱くことも一度じゃなかった。それでも結局、好きなものにしがみついて何とか生き抜いてやろうという気持ちでここまでやってきたわけだが、シェフたちの話は不思議と僕自身を奮い立たせた。「求める者に、道は拓ける」。あとがきで井川が記したこの一言は、シェフたちの道程だけでなく、僕の10年間を照らしてもらったような気持ちになったわけです。この本の帯には「10年で奇跡 30年で伝説」と書かれていたけれど、せめて来年までは生き抜けるよう頑張らねばと思う今日この頃です。